第四十四回
「完全犯罪……」
再びそうつぶやいた苫江の声には、蘇り始めた興味の色が宿っていた。釣り竿を慎重に操るように、堀川はさらに声を潜めた。
「いわゆる、密室殺人であり、音楽による殺人とも云えましょうか」
ライブと称し、歌舞伎町のライブハウスで怪談を語り続けているかれは、生の舞台に鍛えられているだけに、会話の誘導が巧い。早速、鞠花が食い付いた。
「音楽による殺人が可能なら、当然、完璧な密室が作れる、か。ところでそのジプシー女の死因は何だったの?」
「心臓麻痺です」堀川が、苫江の表情を注視しつつ、急いで付け足した。
「口をホルンの形にあんぐりと開き、これ以上ないほど目を吊り上げて。首には、みずから引っ掻いた傷跡がありました」
「単純に発作が原因なのでは?」苫江が冷たく云い放つ。
「自然死を装った他殺だと、作中、探偵役は主張し続けます。まあそのへんは、古い小説ならではですね」
「声の男はどうなったのかしら。密室から聞こえたという」
「間もなく男の存在は否定されます。じつは被害者みずからの声だった。狂ったような笑い声に、うっ、うっ、という低い声が混じっただけなのだ、と」
「他愛もない」鞠花は欠伸をした。
「その他愛もない事実を、ペダンチックな例え話をひけらかしながら、延々と主張するのが、虫太郎らしいところです」
「でも、だとしたら、女は誰もいない部屋で、心臓が止まるまで笑い過ぎて死んだということ? マーラーの陰惨な曲を聴きながら」
呆れたように鞠花が云い、私は覚えず眉を顰めた。ずいぶんむかし、『黒死館』と併録された分厚い文庫本で読んだが、要するにその通りなのだ。滑稽なだけに、これほど悲惨な死に様があるだろうか。堀川がまとめにかかる。
「最後には、一風変わったトリックが、犯人みずからによって明かされるわけですが。みょうに化学の知識をひけらかしたそれが、テクノロジー擦れした現代人を納得させるに足るかどうか。ともあれ、ミステリーの珍種であることは確かでしょう」
「音が絡む推理小説といえば、意外なところで、松本清張の作にもありますな」蒲良が云うと、
「ああ、『砂の器』ね」懐かしげに、苫江が即答した。
「映画のオファーが来ましたわ。まだまだ駆け出しの頃でした。大きな配給会社による鳴り物入りの大作。端役でしたけど、名を売るには大きなチャンスですし、聞けば、殺される役だと申します。ちょっと食指が動いたのですけど、お断りしました。何でもできる今の子たちと違って、私は不器用な歌手に過ぎませんもの。レチタティーボ以外の、お芝居なんかできません」
「殺される役だから、食指が動いたのですか?」
私が尋ねたのは、チャンスだからではなく、そうとしか聞こえなかったから。女帝の顔に、みょうに若やいだ笑みが浮かんだ。
「ほとんどのオペラで、プリマドンナは死ぬものですわ。台本を頂いてね、そのシーンばかり繰り返し読んだのを覚えています。自身が演じているところを、うっとりと想像しながら……あれも変わったトリックですわね。映画では、前衛芸術のオブジェのような装置に囲まれて、踊るように苦しみながら死んでゆくのですね。今でも名作と云われるだけに、秀逸な演出でした」
私もそのシーンは、強く印象に残っている。原作を独自に解釈したもので、玩具のような、無数の簡易レコードプレーヤーに囲まれた小部屋が映し出された。プレーヤーには、様々な色のけばけばしいペンキが塗られ、台座で高低がつけられて、何も載っていないターンテーブルが、あるものは廻転し、あるものは沈黙し、また突然、動き始めたりする。
現代芸術家の「作品」を、そのまま舞台装置として用いたのだとか。もし若い頃の苫江が演じていたら、さらに強烈なシーンになったろうことが惜しまれる。
「清張の時代には、まだまだ芸術の毒性が広く語られていましたからね」京林が髪を掻き上げた。
「コトバは焚書坑儒の大昔から弾圧の対象でしたな。ヒットラーの嫉妬が絵画作品にまで及び、黒人差別の抑圧からジャズが飛び出してきた」
「ロックは不良と云われたのが最後ですか。プラス思考とやらの流行でしょうか、今や誰も芸術を毒だとは云わなくなった」
蒲良の言葉を堀川が受けたあと、明子が、はやりどこか憑かれたような声を響かせた。
「毒は薬、薬は毒なのですね。『マクベス』の魔女ではありませんが。モーツァルトの『薬効』が謳われるのも、音楽がいつでも逆の効果を吐き出せる可能性を、示唆しているのかしら」
彼女の耳元にはぴったりと、有坂美月が寄り添っていた。




