第四十回
(いや、それはあり得ない)
カリオストロ伯爵ことジュゼッペ・バルサモが、パレルモ出身であることは間違いなさそうだ。が、かれは一九八五年に死んでいる。ナポレオン・ボナパルトがクーデターを起こし、第一執政に就任したのが、その四年後。なのに、「Mへ」の手紙では、「L・V・B氏」の死期が迫っていることに触れられている。だとしたら、カリオストロの死から三十年ほど経過していなければならない。ナポレオンはといえば五年以上前に、セントヘレナ島で失意のうちに死去しているだろう。
なぜか三者とも、毒殺説につき纏われている。
蒲良肇はたしか、カリオストロの評伝を書いていた。京林や堀川にしても、いわば専門分野中の話なのだから、当然、矛盾に気づいている筈だ。
それとも、もしかして鞠花ともども承知の上で……唸りながら、蒲良が云った。
「ここにひとつの逸話があります。時に一八四六年。カリオストロ伯爵がローマの異端審問に付され、獄死してから五十年ほど過ぎています。所はフランス・サン=クルーの宮殿です。六月六日の夜、『国民王』ルイ・フィリップの前で、一種の魔術ショーが行われておりました」
革命の裳裾がギロチンの鋼色を帯びたあと、夥しい緋色の染料に浸された皇帝のマントが、ヨーロッパじゅうを焼き尽くした。ワーテルローの血も乾かぬうちに、亡命先から舞い戻ってきた旧王侯貴族たちによる旧体制。むろんそんなものが、貴族の殺戮に慣れた「市民」を納得させられる筈もなく、議会の傀儡とも云うべきオルレアン公を打ち立てての、いわゆる七月王政が敷かれていた。
蒲良は続けた。
「魔術師はロベール・ウーダンと名乗っております。かれは居合わせた貴族たちにハンカチを所望し、それをどこへ隠したいか、カードに書かせます。カードはルイ・フィリップに手渡され、王が中の一枚を選びますと、『庭園の並木道右側、オレンヂの樹の下』と書かれていました。次に魔術師ウーダンは集めたハンカチを釣り鐘型のカップで覆い、ワン、ツー、スリー。と、云ったかどうかは存じませんが、次にカップを持ち上げると、摩訶不思議。ハンカチは全て消えており、代わりに白い鳩が可愛らしくうずくまっておりました」
「引田天功のご先祖といったところか」
みょうに真面目な口調で、堀川が云う。蒲良も真顔で語を継いだ。
「間もなく、例のオレンヂの樹の下から掘り出したという、赤く錆びた小函を抱えて、庭師が駆け戻って参ります。鍵がかかっていて開かないようですが、魔術師が得意げに指差したのは、さっきの白い鳩。その首に金の鎖が巻かれ、鍵がぶら下がっているのです。さっそく開けられた箱の中からは、消えたハンカチの数々と、一枚のぼろぼろの羊皮紙があらわれました。その羊皮紙には、じつに奇妙な文句が書かれていたのです」
わざと間を置いて、ジンジャエールを口に含むと、さらに続けた。
「羊皮紙には、今日が一七八六年六月六日であること。ちょうど六十年後の魔術ショーのために、ハンカチともども小函に封じて、オレンヂの樹の下に埋めたこと。これを書いたのが、『バルサモ・ド・カリオストロ』であることが記されておりました」
私はまるで蒲良が、目の前でその奇術を演じてみせたような錯覚に陥った。隣で、京林が髪を掻き上げた。気のなさそうな声で、誰に話すともなく云う。
「カリオストロは生前から、不死身を吹聴していましたからね。獄死した後も、永いこと方々で、かれを目撃したという噂が、まことしやかに囁かれています」
「まさかあなたたち、本気で信じているのですか。もう少し、科学的なお話しをして頂きたいわ」
そう窘めながら、女帝の口ぶりは、どこか愉快そうだった。伝説が示すとおり、カリオストロが生きていたとしても、ベートーヴェンの呪いからは、逃れられなかったのだろうか……ふと顔を上げると、明子の耳もとに顔を寄せ、有坂美月が何事かを囁いていた。
「私が留学中に、奇妙な噂を耳にしました」
軽く片手を上げて、いきなりそう云ったのは、明子だった。女帝はけれど、今度は睨みつけたりせず、小首を傾げて先を促した。
「カリオストロの?」
「いいえ。お母様はもう少し、科学的な話題を所望なさいましたから。ドイツで極秘裏に行われている、音楽療法の実験についてです」
そもそも明子は留学経験がないので、彼女の云う「私」とは美月を指すのだろう。想像以上に咽を痛めているのか。彼女が家族の会話に参加したいときは、あたかも霊媒のように、明子の口を借りるのが習わしであるかのようだ。堀川が尋ねた。
「音楽療法なら、よく耳にしますが。なぜ秘密にする必要があったのでしょう?」
軽く頬杖をついて、明子に顔を寄せた姿勢のまま。美月は堀川を眺め、また何事か囁いた。淡々と、明子は増幅装置の役目を果たす。
「もし間違って使用されると、逆に健康な人を病気にしたり、あるいはマインドコントロールに使われる可能性がありますから」
「音楽を、洗脳に?」




