第四十一回
我知らずつぶやいた私を、たちまち美月の視線が捉えた。深淵を想わせる、昏い眼差し。背筋に、官能とも恐怖ともつかない戦慄が走った。
霊媒と化している明子が、淡々と答えた。
「そうなりますね。ことに薬品メーカーとは利害が真っ向から対立しますから、かれらの圧力を避けるためにも、なおさら研究は秘密裏に行われたと申します」
「その原理とは?」蒲良が身を乗り出した。「ドイツ」文学者として、黙っていられなかったのだろう。
「コンピューターでタンパク質の分子構造を解析し、音符化したものです。プロテイン音楽と呼称されます」
美月の視線だけが動き、石化した一同を見渡した。明子は言葉を継いだ。
「あるタンパク質の不足によって病状をきたした患者がいるとします。かれには、その足りないタンパク質に相当する音の組み合わせを聴かせます。音楽は耳から骨へと全身に伝達され、効率好くタンパク質の生成を促すのです」
「つまり、逆の用途に用いれば……」堀川が珍しく、掠れた声を出した。
「悪性細胞を増殖させることも可能でしょうね」
音楽殺人!
それは実現可能であり、目的は真反対であれ、極秘裏に研究がなされているというのか。
ピアノ線のように張りつめた空気の中、明子の耳に唇を寄せたまま、ふぅわりと美月が笑うのを見た。鞠花とはまた異なる妖艶さ。姉が深紅の花ならば、彼女は青い蝶に例えられようか。
「ただの小耳に挟んだ噂話に過ぎませんわ。この原理を発見したユダヤ人のエピソードが、また一風変わっていますの。聖堂で献金のときに、決まった音楽を流すのですって。実はその曲には、金属を身体に取り込むのを促す音が含まれていて、結果、おカネへの執着心が薄れ、人々は気前よくお財布を軽くしてゆくのだとか」
「興味深いですね」一人、表情を変えぬまま京林がつぶやいた。
「だとすると、職業病という線も考えられるな。モーツァルトにせよシューベルトにせよショパンにせよビゼーにせよ、大作曲家には若死にが多過ぎないか。例のLVB氏にしたところで、とても長生きしたとは云えない。死因が何であれ、だ。チャイコフスキー、シューマン、マーラー、等々、数え上げればキリがない。死屍累々だよ」
充血した目を暗く輝かせ、堀川がそう云った。また京林が、無感動な声で付け足す。
「ジョン・レノンも鬼籍に加えますか」
「他殺じゃないか。いやいや、死因については論じないと、自分で云ったのだった。様々な要因が複雑に絡んでいたとしても、音楽がもたらした死に違いないだろうね」
「ブライアン・ジョーンズ、ジャニス・ジョプリン、シド・ビシャス、そしてマイケル・ジャクソン……こちらもキリがありませんね。まあ、クラシック勢と比べれば、音楽産業の肥大化と表裏をなす、麻薬の影響が大なのですが」と、京林は「お手上げ」のポーズ。
「もちろん先生がたは、トニー・ウィリアムスをご存じですわね」
片手で軽く支えた「午後の死」のグラス越しに、鞠花が嘲るような眼差しを向けていた。いつもなら縮み上がるところ、マイルス・デイヴィスに目のない私は、バーボンの酔いにも後押しされて答えていた。
「ジャズ、と云ってしまっていいのか判りませんが、ドラマーですね。一九六三年にマイルスの、いわゆる黄金クィンテットに加入したときは、僅か十七歳でした」
「ええ。そして一九九七年、九一年に六五歳でマイルスが死去した僅か六年後に、亡くなった。享年五十一歳。死因は、心臓発作」
わざと噛んで含めるように、彼女は最後の一言を発音した。再び苫江が、不快感も露わに眉根を寄せるのが判った。
次に聞こえたのが明子の声だったので、些かぎょっとさせられた。見れば、美月はすでに顔を離しており、ゆえにこれは長篠明子本人の発言とおぼしい。
「ポリリズム……黄金クィンテットにおける、かれは『心臓』でしたものね。マイルスが必死に喰らいついていったという、高速のドラムプレイ。究極まで解体された四ビート。やがてかれの叩き出すポリリズムが、自身の心臓をも喰い尽くしたのでしょうか」
どこか焦点のずれた目つき。いまだ霊媒としての呪縛を解かれぬまま、明子は美月に遠隔操作され、彼女の意のままに喋らされているような気がしてならなかった。独り言のように、彼女は付け足した。
「ドラムスが、かれの心臓にとって代わったのかしら」




