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第三十九回

「時に堀川先生。失礼ながら、これはまともな評価に耐えうるものと考えて、宜しいのでしょうか?」

 ワイングラスをちょっと傾けたあと、いきなり苫江が切り出した。同時に、銀の盆をうやうやしく手にしたメイドたちがあらわれたが、盆の上には、小冊子のようなものが重ねられているのだ。

 あたかも、ジェリコの喇叭を吹き鳴らす急降下爆撃機のように、二人は両側へ散開し、大仰なリボン結びをはらはらと翻しながら、冊子を配布し始めた。不可解な目配せと一緒に、円香にそれを手渡されたとき、私は瞠目せずにはいられなかった。

 俳優が受け取るシナリオを想わせる、小冊子の表紙にタイトルはなく、ただ古拙な木版画を模した「人魚」のカットが添えられていた。それが例の、「Mへ」の手紙であることは、開いて見るまでもなかった。

 あまりにも唐突な宣戦布告……けれども堀川は、妖怪らしいふてぶてしさで、舌舐めずりしている。

「まともな、と申しますと?」

 ちょっと目を細めただけで、苫江はこれを黙殺。代わりに鞠花が、悪戯っぽい視線を堀川に向けた。フルート型シャンパングラスに入れられた、緑色のカクテルを軽く揺らしながら、生き物じみた赤い唇を月の形に歪めて。

「きっとお母様は、有識者とかいう報道用語を、お好みにならないのでしょう」

「そのとおりです」

 女帝が冷たく同意すると、堀川秋海は酔眼を暗く輝かせ、演技的に笑ってみせた。

「なるほど、なるほど。私なんぞ無識者を飛び越えて、無法者の類いですからなあ。しかし、書簡の発見者であります、この京林くんは、若手ながら『あの』I書店から訳書を世に問うほどの気鋭。世の頑迷な有識者どもをひと泡吹かせるのに、不足はないかと」

「ひと泡吹かせる……」

 そうつぶやいたのは、目の前の明子に間違いない。現に、たしなめるような苫江の一瞥に射すくめられ、赭くなって目を伏せたから。けれどもなぜか私には、さっきから一言も発しない有坂美月が、そう云ったような気がしてならなかった。

 幽かに小首を傾げたままの、美月の視線の先には、京林雅晃がいた。かれは、一度、神経的に髪を掻き上げたきり、グラスの中の氷が溶けるさまを、無言で見つめている。色彩に例えれば深紅の、鞠花の笑い声が降ってきた。

「疑い始めたらキリがないでしょう。絵画の天才がいる一方で、贋作の天才もいるとか。ルーブル美術館に麗々しく掲げられているモナ・リザだって、ダ・ヴィンチの真作かどうか。そもそもレオナルド・ダ・ヴィンチという一個人が実在したかどうかさえ、疑わしい限りだもの」

「時間を飛び超えて、ニューヨークでマルセル・デュシャンと名乗っていた可能性もありますか」

「おおいに、ね」

 堀川に対し、心を蕩けさせるようなウィンクをひとつ。

 酔いが廻ってきたのか、新宿で不快感を露わにしていた彼女とは、ずいぶん印象が異なる。残りのカクテルをひと息に飲みほして、言葉を継いだ。

「『Mへ』の手紙を書いたJ・Bなる人物は、ヴァイオリンの贋作を生業としていたのでしょう。何だか騙し絵みたいで、興味深いわ」

 鞠花が興味を示している!

 そもそも、彼女がその気になってくれなければ、この度の計画は先へ一歩も進まないのだ。すかさず堀川が、釣り糸を繰り出したことは、云うまでもない。

「J・Bとは、誰を指すのでしょうね、鞠花さん」

 メイドから新たなグラスを受け取り、彼女は軽く指で縁をなぞった。緑色の酒は、さっきと同じカクテルとおぼしい。そのさまを横目で眺め、苫江がはっきりと眉を顰めた。

「もうおよしなさい、アブサントなんて。ただでさえ、あなたの心臓は……」

「『午後の死』よ、お母様。ロートレックを殺せるほど、強いお酒じゃないわ」

 ヘミングウェイの作品にちなんだ、午後の死という名のカクテルがあることを、そのときまで知らなかった。挑発的な眼差しを掘川へ向けたまま、有坂鞠花は人さし指の動きを止めた。

「J・Bとは、ジュゼッペ・バルサモのことではないかしら?」

 隣で京林が、息を呑むのがわかった。蒲良の唸り声がそれに続いた。ジュゼッペ・バルサモ……云うまでもなく、革命期のヨーロッパじゅうを驚異の色に染めた希代の詐欺師、カリオストロ伯爵の本名である。

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