第三十四回
「あの老人に……」
「えっ」
唐突なつぶやきに、美架は敏感な反応を示した。カップをソーサーごと持ち上げたまま、唯一の椅子に座って、じっとあたしを見上げていた。
「あの老人に、あれほど多くの血が流れていたなんて、誰が想像できたろう」
歌を諳んじるように、そこまで云って、また彼女と目を合わせた。身動き一つせず、美架は次の言葉を待っていた。
「何かのお芝居の台詞みたいだけど。題名が判る?」
ちょっと天井を見上げて、考える仕草。けれども美架が最初から答えを用意していたことは、何となく判った。
「シェイクスピアですね。マクベス夫人の台詞です」
「彼女は誰を殺したの?」
「先王を。実際に手を染めたのは、夫のマクベスですが」
「彼女の手も、血に染まっていたんじゃなかったかしら」
「ええ。彼女は兇器の短剣を、殺害現場である王の寝室へ戻しに行きます。だから自身の手をも、真っ赤に染めたのです」
「共犯者というわけね。でも、夢遊病になった……」
「罪の意識から。夫をしのぐ冷酷非情ぶりを見せた、鉄のような女の心が、血の幻影に蝕まれ、みるみる壊れてゆくのです」
「血の幻が、罪の意識なのね」
「こんな、有名な台詞があります」
美架は紅茶を傍らに置いて、席を立つと、両の掌を自身の目の前にかざした。
「まだ血のにおいがする。アラビアじゅうの香料を残らず掻き集めても、このちっぽけな手は、清められはしない」
大袈裟な演技は、何一つなかった。蒼ざめた顔は、仮面のように無表情なまま。ほとんど抑揚のないトーンで、つぶやいただけ……
けれどもあたしは、背筋が凍る思いだった。
美架の姿が、彼女とは似ても似つかない、一人の女と重なって見えたのだ。
幽霊の話をしたのは、彼女が来て四日めだったと記憶する。すでにあたしは、貝殻の城に引き籠もる前に、美架とお茶を飲むのが習慣になっていた。
「そう、灯りがともるの。十五年以上、一度も開かれたことのない『遊具小屋』に」
女中部屋の灯りはあくまで暗く、物置のような殺風景さが、相乗効果をもたらす。これまで何人もの家政婦が、耳を塞ぎ、首を振りながら、もう話さないでと、涙すら浮かべて懇願した。
それでも彼女たちは呪縛されたように、椅子から立ち上がることすらできず、最後まで話を聞かざるを得なかった。
実際に椅子に縛りつけたことも、一度ならずある。
なのに……
「その開かずの小屋で、何らかの事件が、過去に起きたのでしょうか」
自ら続きを促したのは、この女が初めてだ。溜息をついて、あたしはカップの縁で唇を湿した。
「家政婦が一人、首を絞ったわ」
「十五年前に?」
「正確には十六年前。春先のことよ」
「自殺した原因は、何なのでしょう」
覚えず肩を竦めた。
どうも旗色がよくない。話す傍から分析にかかるタイプは、手に負えない。それも強がったり、否定するためではなく、興味を覚えれば覚えるほど、無意識にそうしてしまうのが、よく判るだけに。
美架を怖がらせるのは、不可能かもしれない。これまでの家政婦とは、何かが根本から異なっている。それにあたしは、こんな美味しいお茶を煎れてくれる相方を追い出すのが、惜しくなり始めてもいた。
いつものように、彼女は粗末な椅子に姿勢好く掛けていた。カップとソーサーを手にしたまま、あたしは背もたれに自身の胸を押しつけ、囁いた。
「REGRET(後悔)」
ぴくりと、美架の髪が揺れたのが判った。




