表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/51

第三十四回

「あの老人に……」

「えっ」

 唐突なつぶやきに、美架は敏感な反応を示した。カップをソーサーごと持ち上げたまま、唯一の椅子に座って、じっとあたしを見上げていた。

「あの老人に、あれほど多くの血が流れていたなんて、誰が想像できたろう」

 歌を諳んじるように、そこまで云って、また彼女と目を合わせた。身動き一つせず、美架は次の言葉を待っていた。

「何かのお芝居の台詞みたいだけど。題名が判る?」

 ちょっと天井を見上げて、考える仕草。けれども美架が最初から答えを用意していたことは、何となく判った。

「シェイクスピアですね。マクベス夫人の台詞です」

「彼女は誰を殺したの?」

「先王を。実際に手を染めたのは、夫のマクベスですが」

「彼女の手も、血に染まっていたんじゃなかったかしら」

「ええ。彼女は兇器の短剣を、殺害現場である王の寝室へ戻しに行きます。だから自身の手をも、真っ赤に染めたのです」

「共犯者というわけね。でも、夢遊病になった……」

「罪の意識から。夫をしのぐ冷酷非情ぶりを見せた、鉄のような女の心が、血の幻影に蝕まれ、みるみる壊れてゆくのです」

「血の幻が、罪の意識なのね」

「こんな、有名な台詞があります」

 美架は紅茶を傍らに置いて、席を立つと、両の掌を自身の目の前にかざした。

「まだ血のにおいがする。アラビアじゅうの香料を残らず掻き集めても、このちっぽけな手は、清められはしない」

 大袈裟な演技は、何一つなかった。蒼ざめた顔は、仮面のように無表情なまま。ほとんど抑揚のないトーンで、つぶやいただけ……

 けれどもあたしは、背筋が凍る思いだった。

 美架の姿が、彼女とは似ても似つかない、一人の女と重なって見えたのだ。

 幽霊の話をしたのは、彼女が来て四日めだったと記憶する。すでにあたしは、貝殻の城に引き籠もる前に、美架とお茶を飲むのが習慣になっていた。

「そう、灯りがともるの。十五年以上、一度も開かれたことのない『遊具小屋』に」

 女中部屋の灯りはあくまで暗く、物置のような殺風景さが、相乗効果をもたらす。これまで何人もの家政婦が、耳を塞ぎ、首を振りながら、もう話さないでと、涙すら浮かべて懇願した。

 それでも彼女たちは呪縛されたように、椅子から立ち上がることすらできず、最後まで話を聞かざるを得なかった。

 実際に椅子に縛りつけたことも、一度ならずある。

 なのに……

「その開かずの小屋で、何らかの事件が、過去に起きたのでしょうか」

 自ら続きを促したのは、この女が初めてだ。溜息をついて、あたしはカップの縁で唇を湿した。

「家政婦が一人、首を絞ったわ」

「十五年前に?」

「正確には十六年前。春先のことよ」

「自殺した原因は、何なのでしょう」

 覚えず肩を竦めた。

 どうも旗色がよくない。話す傍から分析にかかるタイプは、手に負えない。それも強がったり、否定するためではなく、興味を覚えれば覚えるほど、無意識にそうしてしまうのが、よく判るだけに。

 美架を怖がらせるのは、不可能かもしれない。これまでの家政婦とは、何かが根本から異なっている。それにあたしは、こんな美味しいお茶を煎れてくれる相方を追い出すのが、惜しくなり始めてもいた。

 いつものように、彼女は粗末な椅子に姿勢好く掛けていた。カップとソーサーを手にしたまま、あたしは背もたれに自身の胸を押しつけ、囁いた。

「REGRET(後悔)」

 ぴくりと、美架の髪が揺れたのが判った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ