第三十五回
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隠された庭。首のない、薔薇の迷路で方角を見失い、私は足を止めた。
赤い落ち葉たちが、敷石の上で朽ち始めていた。彫像が何も載っていない台座が、ぽつんと放置されていた。台座の主が独りでに歩み去った、その直後に居合わせたような気がしてならなかった。
すると風もないのに、傍らの茂みがざわざわと揺れた。「ドン・ジョバンニ」の不穏な序曲を聴く思いがした。けれども次に覗いたのは、殺された騎士長の石像ではなく、野の精霊のような、愛くるしい顔立ち。
「円香……」
「覚えててくれたのね」
野兎の敏捷さで飛び出してきたかと思うと、白いリボンをひらりと揺らして、もう台座に腰かけていた。
「この庭は都合が好いわ。まるで秘密の逢瀬を隠すために、作られたみたい」
みょうに挑発的な云い廻しから逃れるように、私はわざとそっけない質問をした。
「有坂苫江の趣味なのですか」
「もともと、ここまで複雑じゃなかったみたい。若い頃の奥様に、逢い引きを隠そうなんて気があったとは、思えないもの。現在の庭のことは、ほとんど道雄に任せきりだわ」
「ミチオ?」
「庭師よ。裏の離れに一人で住んでる。お客の前には、まず姿を現さないけど」
全盛期の乱脈な交際は、有坂苫江のステイタスとも云えた。アイドルのような、疵を厭う商品とは一線を画する、芸術家としての自由奔放さが強調された。夜ごとこの家で繰り広げられた宴の数々は、暗渠のような伝説と化して語り継がれている。
くすくすと笑う気配がして、覚えず台座を見上げた。円香は足を組み、掌で両頬を支えて、悪戯っぽい眼差しを、私に注いでいた。ストッキングの古風な留め金が覗いた。
「何をそんなに慌てていたの?」
私が口籠もると、細い腕を水平に上げて、私の頭越しに真っ直ぐ指差した。
「あの二人を見たのでしょう。男のほうは、先生のお仲間じゃないの?」
「知りあって間もないんですよ。よく見えなかったけど、一緒にいたのは、長篠明子ですか」
円香は伸ばしていた指を、次に素早く唇に当てた。左右にを伺う目つきが、私の警戒心を煽った。音もなく台座から飛び降りると、バレリーナのように爪先立って、唇を耳に近寄せてきた。
「幽霊を怖がっていたでしょう。女の名は、有坂美月」
目を見張ったときには、彼女の姿はどこにもなかった。傍らの葉叢が、まだ幽かに揺れており、深紅に染まった山桜の葉に、嘲るように肩を叩かれた。
京林雅晃は、先に広間に戻っていた。私の姿を認めると、パイプを手にしたまま、気のなさそうに片手を上げた。
「庭はどうでしたか」
「妖精の彫像が、台座を抜け出して遊び廻っているようです」
「面白いですね」
たいして面白くもなさそうにそう云うと、煙を吐いた。間もなくメイドたちが入って来て、食卓を調えるというので、さっそく私たちは追い出された。すれ違いざま、出水円香が意味ありげな視線を寄越した。
広間に南面して二つ並んだ寝室が、京林と蒲良にそれぞれ割り振られていた。優に十畳はある、広さも調度も同じような造りで、大きなフランス窓から、庭へ直接出入りすることもできた。
その奥が私たちの寝間となるが、いかにもグレードダウンされた、臨時の客室といった趣き。東西に細長い部屋を、セパレーターで無理に二分割し、両方にベッドが入れてある。本来なら、ボスの堀川が広い部屋を占めるべきだが、本人が固辞したという。
「立派な先生方と違ってね。我々みたく出自の怪しげな輩には、仮寝こそ相応しい」
妖怪と一括りにされてはたまらないが、幸いドアが両端にあるので、六畳ほどの個室の体裁は、かろうじて保たれている。ドアを開けると、揃えられたスリッパを見て、まず安堵した。ビジネスホテルでも、私は靴を脱がなければ落ち着かない。
お互いの領域に、窓が一つずつ。幅は七十センチに満たず、しかも縦滑り出し窓なので、もしここから庭へ抜けようと思えば、私の痩躯がやっと。堀川ならば、山椒魚の頭のように、たちまち腹がつかえるだろう。
部屋の前の廊下と、逆さT字に交差して、北へ短い廊下が伸びる。その東側がバス・トイレ。反対側は最初、物置かと思ったが、二人のメイドに宛がわれていることを、後に知った。客人に部屋を占領されたからではなく、当初から、北向きの小部屋に閉じ籠められているらしい。
するりと抜け出して、森の中を飛び廻ることは、なぜか可能なようだが。




