第三十三回
「……怖がらないで……ことは……思い過ごし……そんなに……いいえ、ぼくは……つもりでは……愛して……」
聞こえてくる会話は、あくまで断片的で、いまひとつ脈略がつかめない。声のする方をどうにか覗き込もうとするのだが、生ける迷路の壁に阻まれて、容易ではない。
真っ黒な好奇心が、むらむらと湧いた。他人の秘密を覗き見たいという、胸躍る願望。上体を低くし、棘に上着を引っかけないよう気をつけながら、生け垣に沿って移動する私は、昏い願望の虜になっていた。アブノーマルな蹲踞の姿勢で、這うように。
「……幽霊が」
びくりと動きを止めたのは、それが男の声ではなかったから。
異様にハスキーな囁き声だったので、一瞬、京林の「二役」かとも疑った。けれど視覚を閉ざされ、鋭敏になった耳で聞けば判る。カストラートでもない限り、あんな声は男には出せない。花咲く季節の乙女だけに許された、云い知れぬ艶が含まれていた。
あるいはハスキーなゆえに、コントラストが際立ったのかもしれない。
生け垣に、僅かな隙間があった。
まるで、わざとこしらえた覗き穴のような。醜い姿勢のまま蠢いて、隙間に顔を近寄せた。積み石の裏側の空洞に棲む蟹になった気がした。
ほっそりとした、女の姿が、まず映じた。
廃墟を模した、何も支えていない円柱。根元の張り出した部分に、女は横向きに腰を下ろし、不自然なほど、上体を奥へひねっていた。細い髪質の、真っ直ぐなセミロング。紺色がかった紫の、まるでクリムトがデザインしたような、ぞろりと長いスカート。
髪型と体形から、最初は長篠明子だと考えた。女の隣にぴったりと寄り添っているのは、京林雅晃に他ならない。彼女の両手を、自身の掌ですっぽりと覆い、頬と頬がくっつかんばかりに……
嫉妬という名の陰火が、胸の内をめらめらと焼いた。暗い感情に目を曇らされ、「手伝いに入っている」筈の明子には、似つかわしくない衣装だと気づくのが、だいぶ遅れた。
風の加減か、京林の声が、異様な明瞭さで耳に吹き込まれたのはそのとき。
「幽霊に人殺しはできませんよ。たとえ、実在したとしても」
そう云ってかれは顔を上げた。生け垣越しに、私とまともに向き合う恰好。気づかれる可能性は、きわめて低い。とは、判っているのだが、銀のフレームに嵌め込まれたレンズが、蒼い光を放ったように見えた。
覚えず「ひっ」と息を呑み、後退った。
妖物に行き逢った臆病者のように、私は後も顧みず逃げたのである。
†
幽霊の話をしても、美架は少しも驚かなかった。
「開かずの小屋に、夜な夜な灯りがともるのですね」
むしろ独特な三白眼を輝かせ、詳細を知りたがるのだ。日頃、ほとんど感情を表に出さないだけに、彼女の変化は、逆にあたしをぎょっとさせた。
(まさか、無類の怪談好きなのかしら?)
奥様が「お下がりなさい」と宣言したところで、みじめな一日の労働が終わる。たいていは午後九時から十時の間だが、奥様の気分次第で、深更まで給仕させられる場合も、決して少なくない。多くの家政婦が、諸手を上げて逃げ出す理由の一つだ。
――明日のことを思い煩うな。明日はまた明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日で足れり。
あたしはクリスチャンではないけれど、聖書の「マタイ伝」にあるという、この言葉が好きで、よく口ずさむ。
これまでは、「女中部屋」に下がるとすぐ、貝殻の城に閉じ籠もるのが常だった。間仕切りのカーテン越しに、相方の忍び泣きが聴こえても、完全に無視した。もちろん美架は泣いたりしなかった。ただあたしのほうから話したくなったのが、例外中の例外なだけで。
美架の無口さに、みょうな安心感を覚えたのは確かだ。こんな狭い空間でともに暮らしながら、一度も彼女とぶつかったことがない。電車の優先席で二人ぶんを占めても平気な健常者の若者とは、真反対の身のこなしを備えていた。カーテンを閉めてしまえば、隣に誰もいないような錯覚に陥るほどで。そのことがかえって、あたしを居たたまれなくさせたのも、また事実。
「美架、いるの?」
「はい」
「入ってもいい?」
「どうぞ」
ケトルを用いて、彼女は紅茶を煎れてくれた。茶葉は奥様が容赦なく廃棄するものを種類ごと、フリーザーバッグに分けて取ってあった。それらを彼女なりにブレンドするのだが、一口含んだとたん、魔法のような幸福感が神経を駆け抜けた。
「何か盛った?」
「喫茶去。お茶は緩慢な覚醒剤ですよ、円香」
結局、美架に敬語をやめさせるのは不可能だと知れた。愛嬌のなさを補う形で、敬語は美架にとって重要な武装なのかもしれない。だから……
あたしはあんな無意味なゲームを始めたのだろうか。




