第三回
ほどなくして、おれは穴蔵みたいな酒場の椅子に収まっていた。周りでは馭者どもが、際限なくビールで乾杯し合い、鍛冶屋と商売人は肩を組み、だみ声を競いながら歌っていた。おれとしたことが我知らず怯えているのか、そいつらが裏では皆、例の組合に関わっているような気がしてならなかった。
豆のスープと蒸した魚とビールをおれのために注文し、ジルフェはというと、場違いに華奢なワイングラスを一つ、口をすぼめてすするのだ。
「儲かるかね」
家具屋の親方らしく、磊落に構えたつもりの声が上擦る。いやに白いナプキンで、卵男は口を拭っている。顔に埋もれちまいそうなくらい小さな目が、妖しい光を帯びた。
「お陰さまで、盛況でございます」
「ふん、それならわざわざ死人を出してまで、評判を落とさなくてもよかろう」
云ったそばから喧噪に掻き消されるので、声を潜める必要はなさそうだった。もっとも連中に、フランス語が判ればの話だが。
「左様でございますな。まずはこれをお持ちくださいませ」
おれの皮肉は、あっさりと無視されたらしい。いびつな樫材のテーブルに、硬い音が転がる。見れば、ドングリくらいの丸い木の塊が二つ。
「耳栓?」
「ご名答で。観劇の際は、こいつを忘れずポケットに忍ばせておいて頂きたいのです。さもなくば……」
「どうなると云うんだ」
「貴方さまのお命に係わりましょう」
ほとんど無意識にビールをあおったが、あおる前より渇きが増した。からからの笑い声が出た。
「ハハハハハ。なるほど読めたぞ。いきなりばかでかい音を掻き鳴らして、心臓の弱いお客さまがたを、地獄までかっさらおうってカラクリかい。だから、おれがでっち上げるデル・ジェスの贋作が欲しいんだな。カノン砲の異名をとるあの楽器が。ならばついでに曲のほうは、只今ウィーンで大評判の某氏に依頼してはどうだい? かれは大砲みたいな交響曲を九つも作ったおかげで、とうとう耳が聞こえなくなったというじゃないか」
自身のまくしたてる声が虚しく、そして陰々と響いた。一緒に笑うか、せめて怒り出すかしてほしかったのに、ジルフェは救いようがないほど、生真面目な態度で切り返した。
「ご慧眼をお持ちでいらっしゃいます。貴方さまが仰言る、その、L・V・B氏のことなのでございますよ」
エル、ヴェ、ベ。
そう発音されたイニシャルが、不気味な呪文みたいに聴こえた。
それによって不可視の亡霊が呼び出され、テーブルの周りをうろつき始めたように、急に暗い影がさした気がした。食事はおろか、ビールの存在すら忘れて、おれは思わず居住まいを正した。
「ウィーンにもおれの顧客がいてね、B氏の噂なら手紙で読ませてもらってる。近頃ではずいぶん体を壊してるらしい。あの様子では、もう曲は書けないんじゃないか。あるいはすでに、この世からいなくなってるかもしれないが……」
「いえいえ、わたくしめは決して、L・V・B氏にあらためて曲を書いて頂きたいのではございません。じつはすでに、手に入れておりますので」
「ああなるほど、楽譜の写しでも手に入れたか。しかし度肝を抜くような交響曲などに比べれば、かれのオペラはつまらないと云うぜ」
フィデリオだかレオノーレだか、陰気すぎて不評だったらしい。まして、客が心臓を打ち破られて死んだなんて話は、一向に聞かない。
目の前で赤い唇がまた、ぐにゃりと歪んだ。声を立てずに、笑っているのだ。
「たしかに譜面を持っておりますが、ごく短い独唱曲でして。静かで美しく、また非常にもの悲しい調べでございます」
「ああ、歌曲か。たいして出廻ってるとも思えんが、よく見つけたもんだな」
何のことはない。どさ廻りの劇団が、有名人のちょっと珍しい楽譜を得た程度のことを、死人が出るなぞと喧伝しているだけじゃないか。拍子抜けがしたおれの頭上に、けれど次の言葉は、鉄槌のように振り下ろされた。
「左様でございます。しかも、いまだかつて何人たりとも耳にしたことのない歌曲でありまして」
「えっ」
「L・V・B氏の、知られざる自筆譜なのでございますよ」
数分後、いびつな樫材のテーブルの上に、奇妙な耳栓と並んで、破り取った痕のある、数枚の色褪せた紙が置かれていた。
五線紙の上に書き殴られたような音符は、いかにも神経質に、何度も修正した跡がみとめられた。インクが滲み、虫食いみたいに所々破けている、皺くちゃの紙からは、けれど鬼気というのか、云い知れぬ圧迫感を覚えずにいられなかった。
いや、圧迫感を通り越して、この楽譜を前にしているだけで、おれは実際に胸を掻き毟りたいほど、苦しくなっていた。
「ウンディーネの……嘆き」
最上段に書き込まれたタイトルらしき文字が、かろうじて読めた。歌のパートには、ひどく不鮮明ではあるが、ドイツ語とおぼしい歌詞が付されていた。




