第四回
すっかり気抜けしたビールが、喉を苦く通過した。劣化した酔いに頭の中を掻き廻され、周囲の喧噪ともども、視界がぼうとかすんだ。
楽譜に顔を近寄せたおれを、卵野郎は片手を上げて制した。
「お読みにならないほうが身のためかと」
贋作者とはいえ楽器作りの端くれとして、一応は目を通した楽譜を頭の中で鳴らすくらいできる。もの悲しい、とジルフェは云ったが、歌を導くための冒頭のピアノは、どこまでも灰色の沼池を漕いでゆくように、昏い。
あやうくテーブルに突っ伏しそうになるほど、頭がくらくらした。酔いのせいばかりとは、とても思えなかった。
「まさかとは思うが、このちっぽけなドイツ歌曲が、死神の正体だというのか」
嘲笑ってやるつもりだった。なのに笑いは、ただの痙攣と化して頬に貼りついた。おれの怯えきった声を、ジルフェは平然と聞き流す。
「左様でございます」
「これをB氏が作ったと?」
「仰言るとおりで」
グラスの縁で、やつはまた唇を湿した。中身はさっきからさっぱり減っていないように見え、また口をつけるたびに、唇がおぞましい赤みを増すように思えた。ジルフェは語を継いだ。
「今宵のオペラでは、この曲がアリアの一つとして挿入され、花形歌手によって初めて披露されます。ええ、昨晩までは毒にも薬にもならない別モノのアリアが、イタリア語で歌われておったわけで。今晩、そいつとこっそり差し替えようって魂胆ですな」
ばか丁寧だったやつの口調が、急に下卑た響きを帯びた。悪戯を考案した悪童のような、小ずるい表情が化け物じみて火影に映えた。
「実験したのかい。この曲を伴奏つきで歌ったところ、つまり……何かよからぬことが起きるのを、目の当たりにしたと?」
舌舐めずり一つで、卵男はおれを黙殺した。あるいはその沈黙こそが、背後に隠されたおぞましい事実を、雄弁に物語っているのかもしれなかった。おれは質問の矛先を代えた。
「いいだろう。仮に昨今流行りの催眠術みたいな力が、この曲にあったとしてだ。B氏の未発表曲だと、どうやって証明できる? 筆跡を巧みに真似る代書屋が星の数ほどいることくらい、知らないわけじゃあるまい」
かく云うおれだって、通行手形の偽造ならお手のもの。商売替えできそうなくらいだ。
「左様でございますな」
「それともあんた自身が、髪を掻き毟ってるB氏の背後に忍び寄って、屑籠からこいつを拾い上げてきたのかい」
「いいえ。この楽譜はB氏より直接、大公閣下に手渡されたものでございます」
頭の中で、有名なピアノ三重奏曲が掻き鳴らされるようだった。B氏絡みで思い起こされる「大公」といえば、一人しかいないじゃないか。また舌舐めずりひとつして、やつは付け足した。
「時に、一八〇五年」
「ウィーンが占領された年か」
「そこを思い出していただけると、話が早いので」
あの凄惨な、アウステルリッツの三帝会戦……
オーストリア・ロシア連合軍をナポレオンが完膚なきまでに撃破したのが、一八〇五年一二月二日。ただこの最終決戦に先立って、一一月一三日には、すでにウィーンは開城させられている。きみもよく知るとおり、街じゅうにフランス兵が溢れ、王侯貴族はこぞって都から脱出した。
「大公閣下もご多分に洩れず都を逃れ、逆にB氏は居残った。このとき作曲されたピアノソナタ『告別』が、親しかった大公との別れと不在の哀しみを、音楽で記録している」
「美しい話で。左様、大公閣下とB氏の間柄は、非常に親密なものがありました。閣下は氏の、唯一の作曲の弟子でしたか。身分差を超えた音楽の師弟関係が続けられるなか、大公は金を惜しまずB氏を援助した。そんな厚恩に対して、B氏もまた多くの傑作を献呈しております。この曲もまた……」
「ばかな、聞いたことがない!」
そもそも楽曲の献呈とは、出版された楽譜の表紙に、麗々しく相手の名を印刷することで完成される。くしゃくしゃの自筆稿をぽんと手渡して、ハイ献呈しました、とはならないのだ。
なぜこれほどまでに興奮したのか、自分でも驚いたほど。覚えずテーブルを叩いて席を立った私を、馭者どもがぽかんと眺めていた。再び椅子にくずおれた後も、私は無意識に楽譜から目をそむけたまま。卵男が嬉しげに揉み手をする様子に、眉をひそめた。
「仰言るとおりで。これは献呈された楽譜ではないのです。ただB氏はB氏なりに、大公の恩に報いたかった。フランス軍が破竹の勢いでウィーンにせまり、都は上を下への大騒ぎであります。優雅なピアノソナタを献上する余裕など、このときはとてもございません」
ワインを一息に飲み干して、ジルフェは続けた。
「密室の中、二人の間でどのような会話が交わされたのか、賎民のわたくしには知る由もありません。あるいは大公の戯れ言を、真面目な氏が真に受けたのかもしれませんが。兎に角、B氏は大公を助けたい一心で、本当にこんな曲を書いてしまいました」
「なんのために?」
暖炉の中で赤々と火が燃えている。口角泡を飛ばす酔客たちの額は汗にまみれている。なのにおれはどうやら、震えているようだった。
血の色をした唇が、目の前でぐにゃりと歪んだ。
「フランス皇帝・ナポレオンを暗殺するために」




