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第二十四回

  †

「少なくとも三日間は、泊まり込むことになりそうだ。おれとしても想定外の展開だが、これはこれで面白い」

 堀川からの電話が切れると、溜息が洩れた。やれやれ、という決まり文句が、続いて出てくる。もしかすると、生きている間に最も多くつぶやく言葉は、この四文字なのかもしれない。

「やれやれ」

 そしてまた、溜息。

 午前十時を少し廻っていた。自堕落な作家業の宿痾で、夜行性動物化した私にとっては、早朝もいいところ。むろん堀川秋海という、「妖怪」のくせに夜も昼も異様に精力的な男に、無理矢理叩き起こされた恰好で。

「勘ぐるにあの婆さん、相当寂しがってたんじゃないか」

 去り遣らぬ眠気の中、そう云った堀川の声が、ねっとりと耳にこびりついていた。

 婆さんとは、有坂苫江を指すのだろう。まだ六十にもなっていない筈だが、豊かな髪をなぜか真っ白に染めてしまった。メディアへの露出は全くと云ってよいほどなくなったが、ごく稀に、高踏的な雑誌のインタビューには応じているようだ。

 現在、「女帝」こと有坂苫江は、北鎌倉の自宅で隠棲しているという。

 巷では、「NHK紅白歌合戦」の常連から外されたことが引退の原因であると、まことしやかに囁かれている。それでもまだ充分過ぎるほどメディアからの需要はあったので、唐突な去り際は、おおいに世間を驚かせた。それが二年前の話。

 一方で、有坂姉妹の「紅白」出場辞退のニュースは、まだ余波を広げていた。「歌謡曲」とは一線を画す姿勢と受け止められているが、ゴシップ誌はこぞって、母、苫江との確執を書き立てた。

 娘たちと異なり、苫江はほぼ独学で歌を学んだ。天性の歌唱力と美貌。及び絶大な存在感を武器に、一からのし上がってゆく課程で、複数の有名な声楽家に師事し、海外でも勉強した。けれども、正規の音楽教育を受けていないというコンプレックスは、始終、彼女につき纏ったようだ。

 堀川によれば、

「母娘が冷戦状態だって? あんな記事はぜんぶ出鱈目さ。姉妹の活動に対して最終的な決定権を有するのは、依然として苫江なんだ。いや、今度のことが持ち上がって、おれも思い知らされた次第だがね」

 あの夜、新宿・「OTELLO」の応接室で、有坂鞠花は明らかに乗り気薄そうに見えた。

 堀川の話を聞く表情は、不快感もあらわ。こんな面倒事を持ち込んできた張本人と云わんばかりに、長篠明子を睨みつけた。

 TVや舞台では、華やかな笑顔の下に周到に隠されていた、露骨に高慢ちきな態度は、老獪な麻布の古狸をして一方的に圧倒するばかり。私は云うに及ばず、京林でさえ最初から及び腰。蒲良の薄笑いまで消し飛んで、神妙な顔つきに変わるほど。

 恐るべき高慢さの中に、母親譲りの女帝らしい威厳を見る思いがした。

 対して、妹の美月は始終、一言も発しなかった。幼い頃から咽を患っていると聞いていたし、実際にTVでもトークは姉に任せきりなのだ。退屈なのか、それとも少しは興味をそそられているのか。完璧なポーカーフェイスで、心の内が全く読めない。

 姿勢好く、浅めにソファに掛けたまま、時折、儀礼的にうなずいてみせた。もし瞬きをしなければ、美しい自動人形と見紛うかもしれない。

 火のように激しやすい姉と、水のようにもの静かな妹。初めて間近で目にする高名な姉妹。この二人の組み合わせが生み出す破壊力は、計り知れなかった。

 ついに鞠花は、しきりに天気を気にし始めた。

「早く帰らないと、雨に降られるのは厭ですから。お話は一応承りましたが、母に相談してみなければ、何とも答えようがありません。それでは、私たちは急ぎますので」

 たしか店へ来るまでの間、空は晴れていた。雨の予報は一切聞いていないし、「OTELLO」にも傘を持っている客は、一人もいなかったかと記憶する。

 この不躾な面談を、早々に打ち切りたい一心なのだろう。母に相談するというのも、後でマネージャーか誰かを介して、体よく断らせるための前振りに過ぎまい。振り向きもせず、応接室から出て行く姉妹を見送りながら、私はそう考えた。

「けんもほろろとは、このことだな。場所を代えて、作戦を練り直そうじゃないか」

 要するに、飲み直すつもりなのだろう。独仏両先生の意向は知らぬが、私は堀川の提案に渋々従う恰好で店を出た。たちまち冷たい雨に、しとしとと肩を叩かれた。

 北鎌倉の女帝・有坂苫江から、直々に堀川へ連絡が入ったのは、長篠明子の誕生日の僅か二日後だった。

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