第二十五回
「たいへん興味が湧きました」
女帝は妖怪に、そう告げたという。
「堀川さん、でしたわね。つまりあなたは、こう仰言りたいのですね、曲がりなりにも、ベートーヴェンの未発表曲の可能性がある楽譜をお持ちだと。その歌曲が演奏されるとき、恐ろしいことが起こる。あたかも、ショスタコーヴィチの交響曲第十四番のように」
一介の山師に過ぎない堀川は、無学な私同様、たいして音楽通ではない。知りもしないエピソードを、まさにその通りです。などと、おおいに持ち上げたことだろう。
調べてみると、これは旧ソ連の大作曲家の最後の交響曲であり、リハーサルを聴いていた共産党幹部が心臓発作を起こし、間もなく死亡した。幹部はショスタコーヴィチと確執があったという。
私はさっそくショップに寄って、ディスクを入手した。指揮はマーラーの全曲版での健闘が、個人的には好印象なインバル。ウィーンフィル、ではなく、ウィーン交響楽団の演奏である。
交響曲というより、「大地の歌」を想わせる、オーケストラ伴奏の歌曲集といった印象。暗く寂しげな旋律のあと、私がどうしても理解できない、シェーンベルクふうな音が飛び出したときにはゾッとした。
けれども、「月に憑かれたピエロ」ほど突き放されることはなく、前半のクライマックスとも云うべき、第三楽章を迎えた。表題は、「ローレライ」。「あの」ギョーム・アポリネールの詩が用いられている。
ライナーノーツを読んでも、共産党幹部がどの楽章で発作を起こしたのか、書かれていない。が、この第三楽章は、充分あやしい。まるでわざと心臓を変調へと誘うように、パーカッションとして打ち鳴らされる鞭。終盤にカスタネットが鳴り響き、有無を云わさず、棺桶に叩き込むような鐘の音に、終止符を打たれる。
心臓に毛の生えた私でさえ、覚えず胸を押さえたほど。
ローレライ……彼女の歌を聴く舟人を、死へと誘う人魚。
「やれやれ」
面倒なことになったものである。まるであの夜の鞠花の反応を裏返したように、有坂苫江はたいそう乗り気だという。
「詳しいお話を、お伺いしたいものですわ。北鎌倉へ、ぜひお越しになって。もちろん娘たちも呼び寄せましょう。大きなホールで演る前に、私の隠れ家でリサイタルを……いえ、実験を試みるのも、一興ではございませんか?」
いやに若々しく弾んだ声で、そう云ったのだとか。舌舐めずりせんばかりに、堀川秋海が飛びついたことは、云うまでもない。かれもまた、電話で声を弾ませた。
「酒井くん、もちろんきみにも行ってもらわなくちゃいかんよ。苫江の許可もとり、K社とは話をつけておいた。北鎌倉の隠れ家とやらで何が起こるか判らんが、一部始終を『妖』に発表する」
妖と書いて「あやかし」と読ませる。大手出版社のK社が隔月で発行している怪談専門誌に、堀川は責任編集として名を連ねていた。一応の反抗を、私は試みた。
「京林さんたちはともかく、自分が行く必要があるのでしょうか」
「何を云うとるかね。新宿のブレーン会議に、きみも混じってたんじゃないか。なるほど、いきなり渋谷の大ホールを押さえるより、まずは雑誌に発表したほうが、宣伝効果も桁違いだろう。あの女、たいした策士だと思わんかね。酒井くん、そいつをきみ以外の誰が執筆する?」
私は二の句が継げなかった。最初から書記の役目を課されていたことに、今の今まで気づかなかったなんて。
ケトルが湯気を噴いていた。
書斎とは名ばかりの、雑然とした居住空間。床にも机にも積み上げられた書籍の間から、インスタントコーヒーの瓶を探りあてた。カップもそのへんに転がっており、ブラックのままハンバーガー屋から持ち帰ったマドラーで混ぜる。
我ながら呆れるばかりのルーズさ加減。嫁を貰う甲斐性はないが、せめてたまに訪れて片付けてくれる女性が、本当に必要かもしれない。
(家政婦を雇うべきか?)
自嘲的な笑みがこぼれた。真っ黒い液体を咽に流し込むと、ようやく思考力が少しばかり回復した。有坂苫江といえば、たしか最新号の「キャラバン」に、インタビュー記事が載っていたのではなかったか。
迷宮と化した部屋から、これを探し出すのに、また骨が折れた。いかにも中高年のスノッブが好みそうな、趣味の好さを売り物にした雑誌。ある意味これと対極にある「妖」への取材を、苫江はよく許可したものである。
カラー見開き二ページの記事は、「私の朝食」と銘打たれていた。有名人がひたすら朝飯を自慢するコーナーとおぼしい。
胡桃パンにサラダにハムエッグにエスプレッソ。一見質素だが、そのじつ器からドレッシングに至るまで高級品で埋め尽くされている。そんな朝食の写真が大きく載り、下のほうにだいぶ小さめの写真が一枚。イタリア製だという、エスプレッソカップを片手に、有坂苫江がゆったりとポーズをとっていた。
豊かな銀髪を背に靡かせ、穏やかに笑みを浮かべながら、かえって挑発的に見えてしまう。日本人離れした顔立ちの隅々に、プライドの高さが漲っているようで。そのプライドこそが、堅牢な城壁となって、彼女の美しさを衰えさせないのだろう。
背景はもちろん例の「隠れ家」に違いない。たっぷりと生けた赤い薔薇。アン王朝様式のソファーに寝そべるペルシャ猫。徹底的に陳腐であるが、それゆえに、十八世紀の肖像画のような美しさは否定できない。
ウイリアム・モリスふうの壁紙。右端には銅版画らしい、小さな楕円形の絵を入れた額が写り込んでいる。何が描かれているのか、よほど顔を近づけてようやく判然とした。
髪の長い、人魚だった。




