第二十三回
二年間も住み込みながら、初めて示された親密さが、あたしをたいそう怯えさせた。近頃の奥様のはしゃぎ様は、たしかに奇異だった。それも、風変わりな来客を匂わせる連絡が入ってから、始まったのは間違いない。
おそらく奥様は、死ぬほど退屈だったのだろう。
終わりのない宴を、みずからの意思で断ち切ったのは彼女だ。もて囃されることに倦み疲れ、まだ五十代なのに、老女のように髪を白く染めてまで。
奥様はけれど、退屈という魔物の恐ろしさを見くびっていた。これまであまりにも縁遠かったがゆえに。じわじわとその身を蝕まれてゆくことにさえ、気づかなかった。
いや、気づいたとしても、プライドが許さなかった。女帝、有坂苫江が退屈しているだなんて。
寂しがっているだなんて。
鞠花お嬢さまは十年前から売れっ子で、この家には寄りつこうとしなかった。三つ年下の美月お嬢さまも、留学を期に離れていった。娘たちがコンビを組み、「有坂姉妹」として名を馳せてから、奥様の孤独はさらに深まったように思われる。
舞台裏では依然、強大さを保っていた「女帝」の影響力が、相対的に薄れたからだ。
鞠花お嬢さまに、だから突然、ある相談事を持ちかけられたとき、奥様は一も二もなく飛びついたのだろう。
詳しい話は、まだ聞かされていない。
ただ判っているのは、鞠花お嬢さまと美月お嬢さま、二人が数名の男性客を連れて来るらしいこと。それは一、二週間以内には実現するようで、母屋の部屋が全て塞がるから、準備をしなくてはならないこと。そして……
そのとき、かなり奇妙なリサイタルが、秘密裏に計画されるであろうこと。
「ああ、そのパンなんだけど、ぜんぶ三津田様に届けてちょうだい。この間、またハムを頂いてしまったから」
女帝の威厳を取り戻したように、奥様は冷ややかな声を響かせた。
「数は云いつけたとおりでしょうね」
「間違いございません」
「一筆書いておくから、出る前に取りに来るように」
「承知いたしました、奥様」
三津田清市は隣に住む医師だ。専門は外科医だが、診療所の跡取りからの叩き上げなので、内科から産婦人科まで、オールマイティにこなすという。相模原の古医院には早々に見切りをつけ、横浜へ転身。そこでずいぶん荒稼ぎしたあと、二十年前、六十歳にもならないうちに、北鎌倉へ身を退いた。
医師としては少々早すぎる引退には、多少の黒い噂がつき纏っている。遠路を厭わず、今でも人目を忍ぶようにして、三津田を訪ねる「患者」がいるとも聞く。
この界隈で有坂家と交際しているのは、三津田だけだった。
高台の最も上に、この二軒だけがほぼ同じ高さで並んでいた。けれども、いざ隣家を尋ねるには、一旦坂を下りて、また上らなくてはならない。モザイクのように落ち葉が散り敷かれた、急な斜面を行く途中、あたしは銀杏の大木の陰に身を潜めた。
色づいた葉をまだいっぱいにつけているので、たとえ何者かが二階から覗いていたとしても、見られる心配はない。二つ折りにされた一筆箋を籠の中から取り出し、広げてみた。
『ハムのお礼を婢に持たせます。数えてから召し上がれ 苫江』
婢に。
はしため、と読むのだろうし、どう考えても、あたしを指すに違いない。古めかしい云い廻しは、奥様にとってあたしが何であるか、端的に表しているのだろう。
呼び鈴を鳴らすと、白い看護服の女があらわれた。医師の家だと判っていても、こんな山の中で目にすれば、やはりぎょっとさせられる。常軌を逸した姿なのは、あたしも同じなのだけど。
「あなたでしたか」
冷ややかに見下すような、切れ長の目。二十代後半か、あるいは三十路に足が届いているだろうか。年齢を無視したお下げ髪が、また異様さを醸す。名前は知らないが、石神井という姓らしい。
「奥様から、ことづかって参りました」
「ご苦労さまです」
バスケットごと受け取り、まるでそこにあることを知っていたかのように、一筆箋に鋭い一瞥を落とすのがわかった。我知らず上擦った声で、あたしは尋ねた。
「三津田さまは、お留守なのですか」
「先生に、何か?」
「いえ、奥様から、宜しくお伝えくださいと」
「承知いたしました」
冷たく言い放った直後には、もう白い背を向けていた。静まり返った家の中からは、人の気配が全く感じられない。
(これほど大量のパンを……)
二年の間に何度も訪ねているが、応対に出るのは、いつもこの石神井だけ。三津田清市本人の姿すら、一度も見たことがなかった。ただ、かれが趣味で焼いているのだという、歪んだ皿などが、玄関脇の棚に干してあるのを目にするばかりで。
ドアの閉まる音が、余所余所しい谺を返した。
なかば無意識に、あたしは有坂家へ目を向けていた。ほんの少しだけ、向こうのほうが高い位置にあるのも、女帝のプライドの為せる業なのだろうか。城壁のように家を取り囲む樹木の間から、最もこちら寄りにある「遊具小屋」が僅かに覗いた。
斜陽の反射とは明らかに異なる灯りが、遊具小屋の窓の中で、鬼火のように揺れるのを見た。




