第二十二回
「この恐ろしい武器が、誰彼の差別なく手に入れられるのです! たとえば、このクロイツェル・ソナタ、殊に最初のプレストですね、一体あれをデコルテを着た婦人たちの間で、普通の客間の中で弾いてもいいものでしょうか?」
トルストイ「クロイツェル・ソナタ」
第二楽章
あれは何かの前兆だったのだろうか。
焼きたてのパンを満載した、大きな買い物籠。来客があるとは聞いていたが、今夜のことではなかった筈だ。これほど多くのパンを、あの老女が、独りで食べ尽くせるのだろうか。
そんな、とりとめのない考えに耽りながら、足を止めていた。冷たい風を纏って、逗子行きの列車が、目の前のホームへ滑りこんでゆくところ。近頃は平日でも紅葉目当ての観光客が多い。小さな駅とは不釣り合いなほどの人々が、はき出される前に、明月院へ向かう小径へ入り込もうと、あたしは歩を速めた。
制服をかつてはお仕着せと呼んだらしいが、まさに奥様から「お仕着せ」られたこの恰好が、好奇の視線に晒されるのは厭だった。八幡宮の、オレンヂ色の袴を穿いた巫女たちを、観光地の付属物として眺めるような。
紫陽花の季節でなければ、小径を行き交う者は意外に少ない。あのときも、珍しく人影を全く見なかったのを覚えている。だから、何だか異界にいるような感じがしたのだろうか。
午前中降り続いた小雨も、お昼過ぎには止んでいた。空はまだどんより曇っており、左手のせせらぎが、いつもより声高に感じられた。
何気なく小川に目を落とし、また我知らず立ち止まっていた。
明月院のほうから、大量の紅葉が押し流されてくるのを見たのだ。
深紅の、人間一人ぶんの血のように思えた。
「あの老人に、これほど多くの血があったなんて、誰が想像できたろう」
たぶん、むかし観た、何かのお芝居の台詞。
それもうろ覚えだから、このとおりだったか心許ない。夢遊病にとり憑かれた貴婦人が、両手にこびりついたまま、洗っても洗っても落ちない血を嘆いて、吐いた台詞だったかと記憶する。
血は、幻に過ぎないというのに。
どうしてあの時、唐突にあんな台詞をつぶやいてしまったのか。
それともあれは、何かの前兆だったのだろうか。
日がな一日、奥様は上機嫌だった。
「いつまでも一人きりでは、あなたも大変でしょう。新しい家政婦が見つかったのよ」
大量のパンをどうするのか尋ねるのも忘れて、あたしは立ち尽くしたのを覚えている。眉を顰めてしまわないよう、無表情を装うのがやっとだった。
「嬉しくないの?」
「いいえ、とても助かります。ありがとうございます」
深々と下げた頭を、再び上げた。その日の奥様は、足首まですっぽりと覆う花柄のガウンに、毛皮の短い上着。一つに束ねた見事な白髪は、娘へと受け継がれるのだろう。
ワイングラスを片手に、軽くグランドピアノにもたれた姿勢は、オペラの舞台から抜け出したようで。昼間からお酒を飲んでいる違和感を瞬時、忘れさせた。
「そうでしょう。あなたにはよくしてもらっているけど、そんなに小さな身体ではね。見ているこっちが、気の毒になります」
もう一人の家政婦が辞めて、二月ほど経つだろうか。雑用なら道雄が手伝ってくれるが、奥様はかれが調度に触れるのを極端に嫌う。ピアノが三台あるこの家は、たしかに一人で掃除するには広すぎる。
が、来てもすぐに辞めてしまうに決まっている。
住み込みの給料はかなり好く、募れば次々と希望者が現れるのだが、たいていは一月と保たない。二年以上も居続けたのは、あたしでやっと二人めだと云われた。
奥様の性格が原因なのは、判りきっている。
「汚い手で、私のものに触らないでちょうだい!」
雇われた初日にそう叱られ、泣きながら飛び出した家政婦もいる。最初のうちは、あたしもアルコール消毒液と、薄いゴム手袋を常備していた。手袋は、三十分以内に取り替えながら。
凄まじばかりに高いプライド。気分屋で癇癪もちのうえに、常軌を逸した潔癖症。
女帝。
いまだ世間が、そう呼んで憚らない人だ。
ただ、辞めてゆく原因は、そればかりではないのだけれど……
「久しぶりにお客さまを招くことになるでしょう。今度ばかりは、だから変な人に来て欲しくないの。家政婦紹介所を通したほうが確実だと云う人もあって。知り合いのツテで、東京の派遣会社に打診したところ、いい人がいるという話よ。ただ」
「ただ?」
アルコールのせいだろうか。いつにない饒舌に驚きながら、うっかり尋ね返していた。普段ならキッと睨まれるところ、奥様は女の子みたいに、くすくすと肩を揺らすのだ。
「無愛想なんですって、その人。礼儀作法は問題ないし、莫迦やのろまの類いでもない。家事もきちんと合理的にこなせるのに、愛嬌だけは皆無だそうよ。いったいどんな家政婦なのかしら? それでもいいかと尋ねてくるから、逆に好奇心を刺激されるでしょう。さっそく明後日から、来てもらうことにしたわ」




