第二十一回
「奥さんにも内緒でね、こっそり聴きに行くつもりだったけど、外せない用事ができちゃって。隠し事はできないものだ。けっきょく日曜日は、妻とお出かけさ」
「この人、有坂苫江の娘ですよね。ピアニストだったんですか?」
チケットを受け取りながら、明子は思わずそう尋ねたという。かつて「女帝」とまで謳われ、一世を風靡した歌手の娘である。ピアノを弾くイメージが、咄嗟には湧かなかったらしい。
美月は明子より二歳年上で、当時はウィーンに留学中。すでに二枚のディスクを発表しており、とくに専門家の間では高い評価を得ていたが、一般的な知名度はまだまだ低い。「あの」有坂苫江の娘と云えば、誰もが姉の鞠花ばかりを思い浮かべたろう。明子が美月の名を辛うじて覚えていたのは、ピアニストとしての「捨て目」が効いて、心のどこかに引っかかっていたからに相違ない。
「日本人なら誰でも知ってる、超有名歌手の娘でしょう。音楽を学ぶには完璧なまでに恵まれた環境で育って、留学して、ディスクも出しているのに、私とは歳が二つしか違わない。嫉妬するなと云うほうが無理な相談です」
正直、気が進まなかったという。けれども一万円近くするチケットと好意を無駄にはできず、また当然、プロの生演奏を聴くことは自身の大きな糧になるので、意を決して渋谷・道玄坂へ乗り込んだ。
「考えてみたら、渋谷駅で降りたのは、あの時が初めてでした」
床も壁も磨き込まれたガラス窓同様、きらきら輝いている建物にまず、圧倒された。知性も金も有り余っていそうな人込みの中で、自身の服装の貧しさが恥ずかしかった。
ホールはかつて西洋の王侯が建てた劇場を、現代ふうにアレンジしたようで、両翼の桟敷席まで備わっていた。キャパは二千以上あるだろうか。今では考えられない話だが、けっこう空席が目立った。彼女の席は三列めの中央寄り。
(女学生みたいだ)
有坂美月を初めて見たとき印象が、それだった。実際にまだ学生だったのだが。光沢のある濃紺のステージドレスから、肩を全て露出させていながら、あくまで清楚で控えめな雰囲気が漂っていた。
演奏が始まったとたん、明子は完全にノックアウトされた。
アンコールが終わるまで、何度も何度も打ちのめされ、実際に意識が飛びかけた。ホールが明るくなり、ようやく我に返ると、アンケート用紙に猛然と感想を綴った。表だけでは足りなくて、裏面にまでびっしり書き込み、気がつけば最後の一人になっていた。居残っている客がいる以上、仕事が始められない清掃業者たちに、取り囲まれていた。
「思い知らされたんです。私は所詮、豆腐屋の娘に過ぎないんだって」
アンケート用紙に「駄目元」で書いておいたアドレスに、美月本人から電子メールが届いたのはリサイタルの三日後だった。京林は云う。
「春になると美月は帰国し、プロとしての活動を開始します。二人の付き合いはメールの遣り取りから、会って食事するまでになりました。ピアノの手ほどきを受けることも、少なからずあったようです。アキちゃんが藝大に入れたのは、美月の助力に依るところが大きかったのは確かでしょう」
「ウマが合ったわけだ」両の拳をくっつけて、堀川が云う。
「アキちゃんのほうが一方的に崇拝している構図は、ずっと変わらないみたいですが。むしろ神格視する傾向は、激しくなる一方ですよ」
なかば無意識に、四人ともピアノのほうへ目を向けた。ちょうど演奏を終えて、明子が音もなく、ピアノの蓋を閉めたところ。そのまま立ち上がると、客たちには目もくれず背を向けた。ソファからずり落ちる仕草で、蒲良が云う。
「おいおい、帰っちまったぜ」
「ココロココニアラズ、か。おれとしたことが、不意打ちを狙ってしくじるとはな。店の応接室には、有坂姉妹がまだいる筈だ。明子なら去り際に必ず、京林くんのいるこのテーブルに寄るだろうと踏んでたんだが」
珍しく慌てた様子の堀川に対し、京林の表情はあくまで冷たい。
「そういうときこそ、軽薄な文明の利器がモノを云うんです」
髪を掻き上げ、内ポケットからスマートフォンを取り出した。ピアニストのように華奢な指で、瞬く間に伝言を打ち込んだのである。
「今に戻って来ますよ。いよいよ、敵の陣地へ斬り込むわけです。『女帝』の娘にして、東洋の美しい魔物たち。有坂姉妹と一騎打ちする、心の準備はできていますか? ファルスタッフ先生」




