王の子
後宮の自室で、ラルセーナは香り高く淹れられた紅茶を前にじっとしていた。カップに注がれた透き通る水色が、ラルセーナの悩ましげな顔を映している。ぱらりと扇子を広げた拍子に立ち上っていた湯気が散らされたが、それに気付く様子もなく扇子で口元を隠した。
それはラルセーナが考え事をする時のクセだった。
「ララさま? いかがなさいましたか?」
「……殿下のことなのだけれど」
アルラに声をかけられてようやく意識が紅茶へ向いた。せっかく丁寧に淹れてくれたものが冷めてしまう。そう思ってラルセーナは扇子を閉じ、ゆったりとした仕草でカップを口へ運んだ。ふくよかな香りがじんわりと心を和ませてくれる。一口だけ、少量味わって飲み下してから言葉を続けた。
「ティアの話を聞く限り、エリシアさまのことは克服されたご様子。シセルの話を聞けば他のご子息たちともきちんと接しておられるようだし……そろそろ王宮へ戻る準備をされても良いのでは、と思うの」
「……王宮へ……ですか」
聞いたアルラの目が点になっている。やはり他の者の目からみれば殿下はいまだ幼い子供なのだろう。同じ年頃の子息と比べても彼の背負う役割は大きく、どんどん年齢など気にかけられなくなっていくのだ。
「とはいえ五爵との謁見はまだ早いでしょうから、まずはそれぞれのご子息、ご息女たちに慣れていただいたらどうかしらと思って」
そうラルセーナは言いながらもまだ思案していた。
将来の臣となる子息たちとひとまず繋がりを持っておくことは重要だろう。王宮に戻った後はあまり交流は出来なくなるが、それでも新たな王となった時に心細さをわずかでも軽減出来る筈だ。
思うところはある。が、今だ王妃でもなくラズウェルの母でもないいち側室が、軽々しく進言出来る事ではない。それがはがゆいと、何度思ったことだろう。
はがゆいと思うのはもうひとつ。ラズウェルをどうしても年相応の子供という目で見られない事だった。
公爵家の娘として育ち、側室としてここにいる自分は常に国の未来を考えて物事を見がちだ。正直、国王がシャーリルを乳母へ当ててくれたことにとても安堵していた。彼女の情はまっすぐだ。身分だとか彼の立場だとか、そういうことよりもただ、まっすぐにラズウェルに愛情を向けてくれるだろうから。
(わたくしが思い悩んでも、仕方のないことね)
ふっと零れた笑いにアルラが気遣うようにそっと伺っていて、ラルセーナはその目線を受けて苦笑した。
「暗い顔をしていては駄目ね。わたくしは陛下の側室なのですから」
「……はい、ララさま」
一度目を閉じ、開いた時には、ラルセーナはいつも通りの、蠱惑的な笑みを浮かべていた。
一方ラズウェルも、そろそろ王宮へ戻らなければならないだろうとは感じていた。いくら母の死で傷付いていようと父が一国の王であり、自分がそれを継ぐ者だというのは変わらない。
(戻らなくては……だが、戻ってどうすればいいのだろう)
それを考えると憂鬱になる。一番怖いのは父に会うことだった。まず会ってくれるかも分からないし、会えたとしてもどんな反応をされるか怖くて顔もまともに見られない、きっと。
(怖い)
王宮には父以外にも怖いものがある。それが臣下たちだった。クレイヴのように表面を繕わない者はまだいい。ラズウェルが受けつけ難いと思ったのは表面上はにこやかに笑う者だった。その奥が、裏側が見えないから。
(怖い……おぞましい)
ずっとここにいたいと考えてしまう。以前はここですら嫌で、自室に籠ってしまいたかった。けれど今は、ここならいられると思うから。だから。どうか。
(許して欲しいと思っても……どうしようもないことなのに)
自分は、王子で。それは変えようのない運命で。いずれ父のように大勢の上へ立ち、守り、戦わなければならないのに。怖い。
(どうしたら……)
どうしたらいいんだろう。
夕食後、珍しくシャーリルがラズウェルの部屋へ顔を出した。ひょっこりと顔を覗かせる様が妙に子供っぽい。
「シャル、どうした?」
ベッドの上掛けをめくった恰好のまま、ラズウェルはシャーリルの出現に目を丸くする。今まで一度だって夕食後に訊ねてくることはなかったのに、どうしたというのか。
「どうしたって……お前今日元気なかっただろ。だから」
問いかけたシャーリルに驚いたようにそう言われて、ラズウェルはびっくりすると同時に少し恥ずかしくなった。まさか、思いっきり態度に出ていたのだろうか。
「なんか、あったんだろ? 憂鬱になるようなこと」
「……いや、そんな事は……」
思わず目を逸らしたラズウェルを数秒見つめ、それからすたすたと側まで歩いてくるとすとんとベッドに腰掛けられてしまった。
困って、歳の差はあるものの夜に男女が同じ部屋にいるのはあまりよくないだろうと思い、一応扉を確認する。含みのない交流をする時は扉は開けておくのが常識だ。自分はまだ十六といえど、まあ身体的には大人の部類に入るので、一応。
すると開いたままの扉の向こうに、ルヴィスの姿がちらりと見えた。その姿が見えているだけで安心出来る。
「ラズ、ほら」
「……?」
ぽん、とシャーリルの隣を示されて困った。まず、ベッドに座って語り合う、ということをしたことがない。ベッドは寝る為にあるものだと思う。しかしシャーリルは突っ立ったままのラズウェルに不思議そうに首を傾げた。
「座れよ」
「……シャルはまだ寝ないのか?」
促されて戸惑いながらもそろりと隣へ座る。と、満足そうにシャーリルは笑った。そうされるとなかなか良い気分だ。
「たまにはいいだろ?」
「……そうだな」
まだ座っただけなのでなんとも言えないが、またにはいつもと違う事をしてみるのも面白いかも知れない。そういえば幼い頃は寝付けない時に母に寝物語を頼んだ事もある。そんな感じだろうか、とぼんやり思った。
「ラズはさ、将来王様になるんだよな」
「!」
いきなりそう言われてぎくりと顔が強ばり、それを隠す為に視線を逸らしてわざとなんでもない風に応える。温かい気分だった心が瞬時にぎゅっと縮まった。
「ああ、そうだな」
「そしたらさ、お前の父さんってどうなるんだ?」
「……え?」
思わずきょとんとしてしまった。
「だってさ、王様は二人にはならないだろ? だからさ、ラズが王様になる頃には、ラズの父さんってどうしてんのかなぁって」
「……なんだ、それは……」
どうも真面目に気になるらしいシャーリルに、思わず呆れた声が出てしまう。だって。身構えた自分が馬鹿馬鹿しいではないか。
(どういう王になるのかとか……こういう国にしてくれとか……普通そういう事を言うのではないか?)
「シャル……」
「ん?」
気にするところが間違ってはいないか、そう言おうとして妙にほっとしている自分にラズウェルは気付いた。胸の奥がふわりと緩んだような。
「……」
「ラズ?」
何か言おうとして、シャーリルの目を見ると消えていく。何故こんなにほっとしているだろう、と自分のことなのに戸惑う。ぐるぐると色々考えた結果、一つの結論に至った。
(そうか……『王』とか『王位継承者』とか……そういう目でシャルが見ていないからか)
「ラズ? おーい」
「……シャル」
「おう?」
眩しい空の青さが心を包む。取り繕うことなど、この瞳の前では意味がないのかも知れない。
「あのな」
「うん」
この瞳だけは、国王と自分を『父子』として見てくれる。どんな事があっても。そう感じた。
「わたしが王になる時は、父上は隠居する事になるだろうな」
「隠居?」
「そうだ」
「隠居って何するんだ?」
自給自足が主な下民には隠居などないのだが、それをラズウェルが知る由もない。
「……ええと……まあ、多分……国を見守る位置になるかと思う」
「へえー?」
「……」
よく分かっていない様子でシャーリルは頷き、ラズウェルも詳しい説明は止めて言葉を探した。
「シャル、あのな」
「うん」
どうも真っ直ぐに目を見られなくて、じっと正面の壁を見つめて続ける。
「戻らなければ、ならないと思って」
「うん?」
「王宮に……そろそろ戻る準備をしなければと、考えていたんだ」
「……そっか」
シャーリルは驚いた様子だったが、すぐに小さく頷いた。とりあえず話を聞こうとしてくれているのだ。
「その事で、少し滅入っていた」
「なるほど」
ぽん、と頭に手が乗せられた。不思議なことにこの手だけは自然と受け入れてしまう。母が亡くなってからは、ルヴィス以外の手に嫌悪すらしていたのに。
「わたしは、王子だから。だから……いつまでもこうしていられない。父上の元で、学ばなければならないことがたくさんあるんだ」
いったん言葉を切って気持ちを落ち着ける。と、シャーリルの手が髪を撫でた。促すように繰り返し髪を撫でられて、深呼吸をして続ける。
「分かってはいるんだ。父上は国王だから、その子供のわたしは、出来るだけ早く父上のやっていることを吸収しなければならない。それは分かってはいる。だが……その為にはまず、父上と向き合わなければいけないだろう?」
「……ま、そうかもな」
それだけ言って、シャーリルが髪を撫でる。ゆっくり、ゆっくり。あまりに自然に話を聞いてくれるので、だんだん固めていた心が崩れてくるような気がした。
「でもな? 父上が……もし……」
言いかけて止めてしまった。言葉がすぅっとのどの奥へ引っ込んでしまって、代わりに大きな不安が這い上がってくる。するとそれを押し下げるようにシャーリルの手が背中を撫でた。上から下へ。目を見つめるとゆるく微笑まれる。
「……父上までもが、わたしを……」
がんばれ、とその目に言われている気がした。促すように背中を撫でられて言葉が滑り出る。不思議な手だと場違いにも思った。
「わたしを、後継者としか見ていなかったら……どうしたら、いいかと」
「……うん」
言い終えたら目が熱くなったのを感じた。それに微笑まれると滴が零れ落ちて、シャーリルの指で拭われた。そうされると母を思い出す。母が目の前にいたのならどうしただろうか。きっと、同じようにしてくれただろうと思う。
「父上に会うのが怖いんだ」
シャーリルは黙って頷いてくれた。それからぴったり横に座って頭を引き寄せられる。正面ではなく横、という距離がほっとした。
「母上がいた時は、父上の気持ちも分かっていると思っていた。母上の事もわたしの事も愛してくれていると思っていた。だが戦争が始まってからは分からなくなってしまったんだ」
「……」
母が臥せって間もなくのことだった。戦争が始まったのは。
「母上が大好きな庭の散策が出来なくなっても、父上は顔すら見に来なかった。母上はそんな父上を悲しがったりはしなかったが……」
目を閉じて思い返す。苦しい息の下で、母が懸命にかけてくれた言葉を。
(あ……)
忘れていた。いや、辛い記憶とともに思い出すのが嫌だったのだ。
「ラズ?」
呼びかけられてシャーリルの目を見つめた。そこに母とは違う青色があって、やはりラズウェルにとって『母』という存在は一人しかいないのだと悟るしかなかった。
「……母上は、な」
「うん」
晴天の瞳に母を思い描く。
『お父様を……助けて……あげて……』
『……お父様は……命を、賭けて……戦って、いるのですよ……』
『ラズ……』
苦しいのに、いつもと変わらない優しい笑みで言葉を紡ぐ。
『立派な王に……なるのですよ……』
柔らかな声が、ラズウェルの耳をくすぐったような気がした。
「父上を助けて、立派な王になれと……言っていたんだ」
「……そっか」
シャーリルが嬉しそうに笑う。それを見てなぜかほっとした。
目を閉じても涙が溢れ出して、しばらく言葉が出なかった。それをシャーリルがぎゅっと抱きしめてくれて、自分で子供だと思いながらもその腕にもたれた。
母の言葉を思い出せた。母が、父と自分を思ってくれた言葉を。それは今頃になってだが、父と向き合うことを激励してくれているようだと思う。
(逃げては、駄目だ)
このまま逃げていても何も良くはならない。どんどん父の心が見えなくなっていくし、戻るのが怖くなってくる。それでは、母の願うような立派な王になどなれない。父を助ける事など出来ない。
(わたしは……父上が好きだ)
どんなに心が見えなくても。どんなに壁を感じていても。
(好きだ……また、笑って欲しい)
ずっと父の姿を見ていない。母が亡くなって父が戦争から帰ってきたと思ったら、どうしてか一目会う事もなく離宮へ移された。理由を問うても誰も答えてはくれず、喚いても皆辛そうに顔を背けるだけだった。
どうしてなのか、今なら少し想像出来る。父は、母似だと言われる自分を見るのが辛かったのではないだろうか。もしくは母を守れなかった自分を憎んでいるのではないだろうかと。
(どちらかは分からない……だが、ずっと逃げていては駄目なんだ)
進まなければならない。それが例え悪い方へ向かうとしても、進まなければそれすら分からないのだから。
どれくらい経っただろうか。気付けば涙は止まっていて、シャーリルの腕の中で微睡んでいて少し恥ずかしくなった。するとシャーリルの手がぽんぽんと頭を撫でて、唐突に声が落ちてきた。
「この間、オルドっていう近衛騎士がこっそり来ててな、お前のことすっごい心配してたぞ」
「……オルド?」
どの近衛だっただろうかと記憶を辿るが、そういえば離宮にくるまで父の近衛すらまともに覚えていなかったと思い出す。もっと様々な事を記憶に刻むべきだったと今更思った。
「お前は元気にやってるかって。それと、父親を恨んでるんじゃないかって気弱になってたぞ」
「気弱に……?」
全く予想しない言葉だった。大の大人が、子供ひとりを気に病むことがあるのか。
「そいつ、王様の息抜きの手伝いしてるんだって」
「……息抜き? ……父上が?」
「そ。王様だって人間だから、息抜きしないともたないってさ」
「……そう、か……」
ふっと深い息が零れる。息抜き。王というものはやはり厳しい道なのだと思う。父はそこに、立っているのだ。母の死に立ち止まることもしないで。いや、王が立ち止まる事など出来はしないのだ。
(父上に、近づきたい)
親子としても、継ぐ者としても。
次の日。ラズウェルは朝早く離宮へやってきたシェイザードを呼び止めた。
「如何なさいましたか、殿下? こちらからお部屋へ出向きましたのに」
柔らかな笑みに勇気をもらって、ぐっと腹に力を入れて宣言する。
「……その、王宮へ戻る努力をしようと思う」
「!」
そう言ったものの視線が落ちてしまう。そんなラズウェルに視線を合わせるように、シェイザードは膝をついて礼をとった。戸惑いながら伺い見ると微笑み返される。
「よく決心なさいましたね、殿下……微力ながら、ご助力いたします」
「シェイザード……」
その言葉に胸が温かくなった。シャーリルが来てから心が急激に変化している。それは良い事ではないかと感じてはいるのだが、勢いを伴う変化は不安を煽る。
そんなラズウェルにシェイザードは力強く頷いた。
「我らは陛下の近衛ではありますが、殿下にお仕えする心構えはすでに出来ております」
「……っ!」
ぽろりと小さな粒が零れる。そんな様を見て、シェイザードは密かにほっとしていた。臣の言葉が胸に届いているからこそ零れた涙だと感じたから。
(この方はきっと、良い王になられる)
その一粒だけを零して、ラズウェルは未来の臣に毅然と頷いてみせたのだった。
一区切り。ようやく背を向けていた王宮へと向きを変えたラズ。次は立ち向かう為の下準備。




