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『ごきげんよう、事件です』 ― ハイカラ探偵団・大正浪漫事件帖 ―

第一章 元始、女性は太陽であった!


「先生、ごきげんよう」

「はい。皆さんもお気をつけてお帰りなさい」

佐姫代(さきよ)は、毎日、校門に立って生徒たちを見送る。それが日課だった。

東京の少し小高い場所に建つ女学校。そこには、華族や豪商の娘たちが通っていた。いわゆる「花嫁学校」ではあるが、ただ花嫁になるためだけの学校ではない。読み書き・そろばんはもちろん、英語、美術、音楽、礼儀作法。

外交官や、将来、海外へ赴くことになるような家の娘たちが、妻として恥ずかしくない教養を身につける場所でもあった。

近頃では、横浜の女学校が制服を取り入れたことが評判になっていた。

「とても品がある」と評判になり、この学校でも制服として袴の色を統一し、革のブーツに、お揃いのリボンをつけるようになった。

夕日の中、色の揃った袴姿の少女たちが校門を出ていく。

佐姫代は、この時間が好きだった。

「今日もお元気にお帰りなさい」

少女たちに声をかけながら、佐姫代はふと、自分たちの学生時代を思い出す。

そして、思わず苦笑した。


自分も、かつてはこの少女たちと同じだった。

佐姫代は、厳格な官僚一家に生まれた。

「封建的な家」を絵に描いたようだった。

三姉妹だったが、父親が帰るまでは夕食を始めない。

食事の席では、父親を真ん中に、母、姉、佐姫代、妹が並ぶ。

祖母の言うことは絶対だった。

母もまた、武家の家に生まれ、維新に功のあった家柄であることを誇りにしていた。「家の格」が何より大切な時代だった。

女は家に仕えるもの。

それが、佐姫代の家の考えだった。

そんな家で、佐姫代は女学校へ行きたいと何度も父に願い、ようやく許してもらった。

女学校では、家では教えてもらえないことを数多く学んだ。

けれど、何より忘れられないのは、親友たちと過ごした日々だった。

そして、忘れもしない。

入学式の日のことだった。


教壇に立った教師が、少女たちを見渡して言った。

「今日から皆さんは、しかるべきお家へ嫁ぐため、『良妻賢母』となるべく、私たちが教育をいたします」

すると、一人の少女が手を挙げた。

「先生。良妻賢母とは、どういうことでございましょう?」

教師は当然のことのように答えた。

「良妻賢母とは、娘のうちは父親に尽くし、嫁げば夫の家に尽くす。そして子を産み、立派に育て、子孫繁栄、お家の繁栄のために賢く家を切り盛りすることです」

すると、今度は別の少女が手を挙げた。

「では先生。私たち個人の人権は、どうなりますの?」

教室がざわついた。

教師の顔が険しくなる。

「女性は男性に尽くすのが当たり前です。個人の人権などという、思想かぶれの発言は控えなさい!」

そのときだった。

教室の後ろから、凛とした声が響いた。

「先生のお考えは、少し違うと思いますわ」

少女がまっすぐ教師を見つめていた。

「『元始、女性は太陽であった』。平塚らいてう先生のお言葉をご存じないのですか?」

教室が静まり返った。

教師の顔は、みるみる赤くなっていった。

「今、あなた方と議論をする時間ではありません!」

声が教室に響く。

「あなたたちは、あとで校長室へ来なさい!」

そして、何事もなかったかのように言った。

「授業を始めます」

佐姫代は、雷に打たれたような衝撃を受けていた。

身体が震えている。

――女は家に仕えるもの。

ずっとそう教えられてきた。

けれど、目の前の少女は、それを真正面から否定した。

佐姫代は、その少女から目を離すことができなかった。

それが、後に生涯の友となる少女との出会いだった。


少女たちの名は――

徳田瑞穂と、棚橋小乃葉。

そして、その日の放課後。

校門の外では、もう一人の少女が二人を待っていた。

「入学早々、校長室でお勉強とは、さすがだわ」

有馬幸炬が、いたずらっぽく笑った。

「あら、サチじゃない。校長室も、なかなかでしたわよ」

瑞穂が笑う。

「校長先生は、話の分かるお方でよかったわ」

小乃葉も、のんびりと微笑んだ。

「ところで、サチ。あなたはどこにいらしたの?」

瑞穂が尋ねる。

「なぜか私だけ隣の組でしたの、あなた方の武勇伝あっという間にきこえましてよ(笑)この騒ぎを見れば、私たちを離して正解と思っていらっしゃるのでしょうね。まったく、意味のないことだけど」

幸炬は、にやりと笑った。

「ところで、今日は私の家へいらして。お父様が日本に帰ってきているのよ。西洋の珍しいもので遊びましょう」

瑞穂が二人を誘った。

瑞穂の父親は貿易商で、ほとんど海外へ出かけている。

年の離れた兄もいて、父親に同行して海外へ行くことが多かった。

そのため瑞穂は、母親と女中たちに囲まれ、何不自由なく、好き放題に毎日を謳歌していた。

ただ、父親が帰ってくると事情が変わる。

会うたびに口うるさい兄から、あれこれ説教される、瑞穂うんざりしていつも兄から逃げ回っていた。

しかし、今日はさすがに逃げ場がない。

父親が帰国したばかりで、家に帰れば、嫌な兄と顔を合わせなければならない。

そう考えると、気が重かった。

そこで親友二人を誘って家に帰るという、瑞穂らしい知恵を働かせたのである。

「そうね。少しお邪魔させていただこうかしら。この間のからくり時計、とても素敵でしたもの。また珍しいものを拝見できるのでしたら……」

小乃葉は、すでに興味津々だ。

「あら、瑞穂。今日は西洋のチーズケーキもいただけるのかしら? 私はそれがいいわ」

幸炬が言った。

「もちろんよ。お父様がいらっしゃるときは、午後は紅茶とチーズケーキですもの」

「では、参りますわ!」

幸炬は嬉しそうに笑った。

「本当に幸炬は、色気より食い気ですわね」

三人は顔を見合わせ、大笑いした。

ところが――。

瑞穂の家に着くと、門前に一台の車が止まっていた。

「まあ……お客様かしら?」

瑞穂が首をかしげる。

「いやな予感がするわ」

小乃葉が車を見つめた。

「お父様の車よ」

「えっ……」

二人は顔を見合わせた。

「まさか、今日のこと、もうお父様に知れているのかしら……」

さすがの瑞穂も青ざめた。

小乃葉はそっと後ずさる。

「わ、私、今日はこのまま失礼いたしますわ」

そう言って引き返そうとした、そのとき――

「小乃葉!」

後ろから、聞き覚えのある声が響いた。

「小乃葉! こちらを向きなさい」

間違いなく、父親の声だった。

「瑞穂! お前も一緒に家に入りなさい!」

今度は兄の声。

幸炬は、さっと二人から離れた。

「私はこれで……」

火の粉をかぶるのは御免だ。

ところが――

「サチ!」

「幸炬!」

がっちりと二人に腕を組まれた。

「えっ、ちょっと!」

幸炬も逃げる間もなく、二人の巻き添えとなった。

まるで嵐に巻き込まれたようだった。

部屋に入るなり、瑞穂は兄からさんざん叱られ、小乃葉は父親から説教を受けた。

二人とも、すっかり辟易している。

その横で、瑞穂の父親と母親は、

「まあ、まあ、そのくらいで……」

と、にこにこと二人をなだめていた。

すると兄が、ぴしゃりと言った。

「お父さんもお母さんも、二人で瑞穂を甘やかすから、こんなことになるのですよ。二人にも責任があります!」

「いやはや……我が家も、娘にはついつい甘くなってしまったようで。本当に小乃葉は……」

小乃葉の父親も、あきれたようにため息をついた。

幸炬は、その様子をにこにこと眺めていた。

そして、ふいに口を開いた。

「叔父様方、本当は――『よくぞやった!』と、お嬢様方を褒めて差し上げたいのではありませんか?」

一同が幸炬を見る。

「だって、お二人とも、きちんとご自分の意見をおっしゃったのでしょう?」

幸炬は、いたずらっぽく笑った。

「娘たちが、自分の考えを持ち、自分の言葉で意見を言える人間に成長したことを、本当は誇りに思っていらっしゃるのではありませんか?」

しばし、部屋が静まり返った。

誰も何も言わない。

やがて――

「……まったく」

瑞穂の兄が苦笑した。

小乃葉の父親も、思わず笑った。

「さっ!叔父様私チーズケーキを頂きに参りしたの、頂けるのかしら?」

「幸炬ちゃんには、かないませんな」

「本当に。一本取られましたわ」

大人たちは顔を見合わせ、笑い出した。

三人の少女も、顔を見合わせて笑った。


幸炬は帰りに、小乃葉と一緒に車に乗せてもらった。

幸炬は座席に腰を下ろすと、思わず感嘆の声を上げた。

「まあ、叔父様。素敵すぎますわ。このお車、座り心地も申し分ございませんわね。それに、この座席のビロード……なんとも柔らかくて美しいですわ。毛並みも揃っていますし、日本では、ここまで均一に仕上げるのは、まだ難しいのではありませんか?」

「幸炬さんは、本当にものをよくご覧になりますね」

小乃葉の父親が、楽しそうに笑った。

「ですが、これは外国製ではありませんよ」

「まあ!」

幸炬が身を乗り出す。

「これは日本の絹ですよ。日本の絹織物も、ずいぶん技術が進歩しました。生糸の品質だけでなく、撚りや織り、染色の技術も向上して、今では外国製品にも引けを取らないものが作れるようになったのです」

「まあ、そうでしたの」

幸炬は、もう一度、座席の布地をそっと撫でた。

「まだまだ私の知らないことばかりですわ。外国から入ってきたものばかりが上等とは限りませんのね」

「その通りです。日本の職人も、負けてはいませんよ」

「まあ、それは素敵ですわ」

幸炬は嬉しそうに笑った。

その会話を聞きながら、小乃葉はそっと微笑んだ。

―作戦成功。

さっきは瑞穂の家にいたので一件落着のようになったが、たぶん二人になると説教されるのは目に見えていた、なので幸炬を送れば、二人になる時間も短くなるというものだ、小乃葉は心の中で、ひそかに満足していた。


入学式での騒動のあと、しばらくの間、例の三人組は静かに授業を受けていた。三人は、算数、英語、国語では常に成績上位の常連だった。

そのため、他の女子生徒たちからは羨望のまなざしを向けられ、教師たちも、あの三人にはなるべく刺激を与えないよう、少し距離を置いているようだった。

けれど、入学式での一件以来、なぜか三人は女子生徒たちの間で、すっかり人気者になっていた。

「よくぞ先生に言ってくださった」

そんな気持ちを、皆が密かに抱いていたのだ。

ところが――。

学問では抜群の三人にも、苦手なものがあった。

裁縫と調理である。

雑巾一枚、まともに縫えない。

針を持てば指を刺し、包丁を持てば先生が青ざめる。

とうとう同じ組の女子生徒たちから、

「怖いもの知らずの三人にも、怖いものがあったのね」

「地震、雷、家事……それに、おやじ!」

とからかわれた。

そのたびに三人は顔を見合わせ、

「家事だけは、どうにもなりませんわね」

と、こちらも笑っていた。

そんな三人を、佐姫代は以前から興味深く見ていた。

頭がよく、物怖じせず、教師にも臆することなく意見を言う。

それなのに、裁縫となると途端にお手上げになる。

どこか不思議な三人だった。

けれど、なかなか近寄る勇気は持てなかった。

ある日のこと。

佐姫代は放課後の図書室で、一人静かに本を読んでいた。

手にしていたのは、西洋の古い書物だった。

英語で書かれているうえ、内容も難しい。

それでも、佐姫代は夢中になってページをめくっていた。

すると――。

「あなた、英語が読めるの?」

突然、声をかけられた。

驚いて顔を上げる。

そこには、にっこりと微笑む幸炬が立っていた。

「えっ……」

「それ、西洋の魔術の本でしょう?」

「どうして……?」

佐姫代が本の表紙を見る。

「私も前に読んだことがありますの。なかなか難しかったけれど、面白いでしょう?」

幸炬は向かいの椅子に腰を下ろした。

「あなたも魔術に興味がおありなの?」

「いえ……その……」

佐姫代は、しどろもどろになった。

すると幸炬は、そんな佐姫代を気にする様子もなく、にっこり笑った。

「私、有馬幸炬。サチと呼んでくださいな」

そう言って、すっと手を差し出した。

佐姫代は一瞬戸惑ったが、その手を握った。

「私、郷田佐姫代です」

「知っていますわ」

「えっ?」

「あたし、あなたのお名前、知っているのよ」

幸炬は楽しそうに笑った。

「いつも音楽と美術では一番でしょう? 名前が張り出されているのを見て、佐姫代って素敵なお名前だなって思っていたの」

「いえ……私なんて。皆様のように学問に優れているわけではありませんもの。せめて、好きなことだけでもと思って……」

「まあ、謙遜なさらないで」幸炬は本を覗き込んだ。

「ねえ、佐姫代さん。オペラはお好き?」

「オペラですか?」

「ええ。よかったら、今度ご一緒にいかが?」

佐姫代の顔がぱっと明るくなった。

「まあ……素敵ですわ。でも、いつもご一緒のお友達とはおいでにならないのですか?」

「ああ、瑞穂と小乃葉ね」

幸炬は少し困ったように笑った。

「あの二人、オペラやオーケストラには、まったく興味がないのよ。誘っても、きっと固辞されるのが目に見えているもの」

「まあ……」

いつも三人一緒にいるように見える。

けれど、三人は三人で、それぞれに好きなものがあり、それぞれの世界を持っている。

その距離感が、佐姫代にはとても心地よく感じられた。

――この三人なら、私も仲間に入れていただいてもいいのかもしれない。

そんな気持ちが、佐姫代の中に芽生えた。

佐姫代は、手元の本に目を落とした。

「実は……興味深いと思って読み始めたのですが、なかなか難解で。ほとんど先へ進まないのです」

「そうね……」

幸炬は少し考えた。

「ちょっとお待ちなさいな」

そう言うと席を立ち、本棚の奥へ歩いていった。

しばらくして、一冊の本を手に戻ってきた。

「こちらを読んでみたらいかがかしら?」

「これは……?」

「今、あなたが読んでいる本の内容を、別の著者が分かりやすくまとめたものですの。まずこちらで大まかな内容を理解してから、原書を読まれたらどうかしら?」

佐姫代は、差し出された本を両手で受け取った。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

幸炬は微笑んだ。

その日、佐姫代は初めて、幸炬とゆっくり話をした。

そして、それが――

佐姫代と有馬幸炬の、運命の出会いとなった。


「郷田先生?どうかされました?」

仲間の先生に声を掛けられふと周りを見渡した。

「生徒さんたちは皆さんお帰りになりましてわよ」と言われ

「そうのようですわね」とふっと笑い、女学校の門を閉めた。

夕日はすっかり沈み夕焼けに染まるまちを見つめた。そして帰り支度をして家路に急いだ。

佐姫代が家に帰ると、母親と姉妹たちが、せわしなく夕餉の支度をしていた。

「ただいま帰りました」

「お帰りなさい。ちょうどよかったわ。お味噌汁をお願いできる?」

「はい」

佐姫代は袴を脱ぐと、慣れない手つきで台所へ入った。

学生の頃には、家には女中が何人かいて、台所仕事から掃除まで、家のことはすべて任せていた。

けれど、祖母が亡くなってから、家の中は少しずつ変わっていった。

長年仕えてくれた女中たちにも暇を出し、今では母と三姉妹で家事を分担している。

「時代が変わったのね……」

母が、鍋の火を見ながらぽつりと言った。

官僚の家とはいえ、以前のように使用人を何人も置いておけるほど、暮らしに余裕があるわけではない。

給金だけで一家を支えていくには、何かと切り詰めなければならなくなっていた。

明治の頃には当たり前だった暮らしが、少しずつ遠のいていく。

家の中に残る古いしきたりとは裏腹に、世の中は確実に変わり始めていた。

佐姫代は、母や姉妹と肩を並べて夕餉の支度をしながら、その変化をぼんやりと感じていた。


第二章 赤ひげ先生と幸炬

「お嬢様、お起きください! お嬢様、朝ですよ」

ばあやのトメが、布団の脇で声をかける。

幸炬は、ぐずぐずと布団にもぐったままだった。

「ばあや、もう少し寝かせて……」

「はいはい。どうぞ、好きなだけお寝みくださいな。赤ひげ先生に叱られるのはお嬢様ですから、私は痛くも痒くもありませんよ」

トメはそう言うと、さっさと部屋を出ていった。

「もう!」

幸炬は仕方なく布団から這い出すと、急いで身支度を整えた。

朝食の席につき、トメと二人で食事をする。

こうして二人で朝食をとるようになって、いったい何年になるのだろう。

ふと、そんなことを思った。

「……あら、いけない!」

古びた置時計に目をやる。

もう、のんびりしている時間はない。

幸炬は食事をそこそこに切り上げると、玄関へ駆けていった。

「ばあや、あとはよろしくお願いしますわ!」

「はいはい。いってらっしゃいませ」

幸炬は自転車にまたがると、勢いよく走り出した。

大正の世になったとはいえ、自転車はまだ、ご婦人方にはそれほど馴染みのある乗り物ではなかった。

ましてや、女学校を出たばかりの娘が颯爽と自転車を走らせる姿は、かなり目を引く。幸炬も本当は車が欲しかった。

けれど、さすがにそこまでの余裕はなく、自転車に落ち着いた。

女性が自転車に乗ると、スカートの裾からペチコートが見えたりして「はしたない」と言われることもある。

そこで幸炬は、自転車に乗るときだけ、ばあやのモンペを借りていた。

それがまた珍妙な姿に見えるらしい。

道端では子供たちに指をさされ、

「ほら、変な格好のお姉ちゃんだ!」

などと笑われることもあった。

けれど、幸炬はまったく気にしない。

「朝から元気ねえ!」

と笑いながら、ペダルを踏み込んでいく。

幸炬は女学校を卒業したあと、赤ひげ先生の診療所を手伝っていた。

誰もが、そのまま高等女学校や、さらに上の学校へ進むものと思っていた。

瑞穂や小乃葉の父親たちも、学費の援助を申し出てくれた。

けれど、幸炬はきっぱりと断った。

両親を早くに亡くした幸炬には、そこまでして学問を続ける余裕はなかった。

それに――。

幸炬自身、上の学校へ進むことなど、夢にも思っていなかった。

何かを諦めたような様子はない。

多くを語ることもない。

ただ、自分の人生は自分で決める。

そんな芯の強さを、幸炬は少女の頃から持っていた。

診療所に着くと、自転車を止める。

「おはようございます!」

「幸炬ちゃん、今日は早いねえ」

「ええ、今日は寝坊しませんでしたもの」

「いつもはどうなんだい?」

「さあ、それは秘密ですわ」

幸炬は笑いながら中へ入った。

待合室には、すでに何人かの患者が来ている。

「お名前を伺いますね。今日はどうされました?」

「熱があってねえ」

「では、こちらへどうぞ。先生に診ていただきましょう」

幸炬は患者の様子を見ながら、受付を済ませ、順番を整えていく。

薬の準備をし、診察室を整え、次々と仕事を片づけていく。

「幸炬ちゃん、少しは休みなさい」

赤ひげ先生が奥から声をかける。

「先生がたくさん働かせるからでしょう?」

「人のせいにするんじゃない」

「では、先生も少しお休みくださいな」

「私は医者だぞ」

「私だって患者さんを放っておけませんもの」

幸炬は、からからと笑った。

赤ひげ先生は呆れたようにため息をつきながらも、どこか嬉しそうだった。

幸炬の一日は、こうして始まる。

学問よりも、人のそばで働くことを選んだ少女。

その選択を、幸炬は少しも後悔していなかった。

そしてなによりも赤ひげ先生のそばにいる事が幸炬にとってなにより幸せだった。


第三章 謎の時計


「徳田様、よろしいですか。この懐中時計は、スイスの片田舎にある小さな工房で作られたものです。その職人が、生涯をこの一つにかけた。執念……いや、怨念に近い思いが込められている、と私は聞いております。この時計が、こうして横浜の港までたどり着いたことに、私は何か因縁を感じます」

貿易商は、そう言って懐中時計を見つめた。

徳田も、手にした瞬間から、なんとも薄気味の悪いものを感じていた。

気は進まない。

それなのに、なぜか目が離せない。

まるで、時計のほうから自分を呼んでいるような、不思議な魅力があった。

――1867年、パリ万博。

スイスの山間にある小さな時計工房から、一人の時計職人が精魂を込めて作った懐中時計が出品された。

精密な機械仕掛けと、スイスの職人ならではの細工が評判となり、やがて万博を訪れていた王侯貴族の目に留まった。

その後、時計は幾人もの手を渡り、長い年月を経て、ついに横浜の港にある商館へたどり着いた。

工房の名は――「ルイ・ブレゲ」。

フランスの時計技師の名に由来するというが、そのあたりの事情は定かではなかった。

「徳田様、いかがいたしましょうか。他にも引き合いがございまして……」

「いくらかね?」

「百円でいかがでしょうか」

「百円とは……」

徳田は腕を組んだ。

いつもなら、銀座の星光堂にいる棚橋を呼び、鑑定を頼むところだ。しかし、今日はなぜか、その気になれなかった。

「少し考えさせてくれ」

そう言い残し、徳田は商館を後にした。

いつものように、すぐ決断することができなかった。

その理由は、自分でも分からなかった。


その夜、横浜の公会堂では、貿易商組合の晩餐会が開かれた。

徳田夫妻も、もちろん列席していた。

外国人の出席者も多く、会場では通訳が欠かせない。当時は語学に堪能な女子学生たちが、こうした場で通訳を務めることもあった。

そして、なぜか――例の三人組の姿もあった。

「サチ、久しぶりに気持ちが華やぎますわ」

瑞穂が、嬉しそうに周囲を見渡す。

「そうね。でも、こんな苦しいコルセットを締めるのも久しぶりだわ。窮屈ったらありゃしない」

幸炬が苦笑すると、

「ねえ、あそこのあの方、素敵ね。初めてお見かけする顔だわ」

小乃葉は興味津々で会場を眺めている。

「最近は炭鉱で大儲けをされた方も増えてきたものね」

瑞穂が小声で言うと、

「白蓮ね……。恋か、富か、権力か。それが悩ましいところですわ」

小乃葉が意味ありげに笑った。

幸炬は二人の会話を聞き流しながら、通訳の仕事を続けていた。

そのときだった。

外国人客の会話の中に、ふと気になる言葉が聞こえた。

「……マリー・アントワネットの時計……」

幸炬は思わず振り返った。

フランス語は、得意とはいえない。聞き間違いかもしれない。

幸炬は首をかしげながら仕事に戻った。


その一方で、瑞穂と小乃葉は女学塾で語学を磨いており、ドイツ語やフランス語にも堪能だった。

華やかな雰囲気を持つ二人の周りには、自然と若い男性商人たちも集まってくる。両親が貿易商と、銀座でも名の知れた宝飾・時計店の主人ともなれば、近づきたいと思う者が増えるのも無理はない。

瑞穂の頭の回転の速さと、小乃葉の社交性は、こうした社交の場でも知られていた。だれもが将来の花嫁候補にしていたが、当の本人たちは全く興味がないのが実情だ。


幸炬は一休みすると、普段は口にしないワインを少し飲み、シェフ自慢の料理に舌鼓を打っていた。

そこへ徳田がやってきた。

「幸炬さん、今日も手伝ってくれてありがとう。あとでお給金をはずむからね」

「はい! 遠慮なくいただきますわ そしてこれも」と

幸炬は笑いながら、手にした高級なワインのグラスを見せた。

「ははは。そうか。たくさん飲んでくれ」

徳田は笑ったが、ふと思い出したように尋ねた。

「幸炬さんは、ヨーロッパの歴史に造詣が深いと聞いたが……」

「造詣が深いなんて、とんでもありませんわ」

幸炬は謙遜した。

「フランス革命前後の宮廷で、マリー・アントワネットをはじめ、当時の貴族たちがこぞって時計を注文した、有名な工房がパリにあったという話は、信憑性があると思うかね?」

「まあ、叔父様。面白いお話ですこと」

幸炬は、一点を見つめるように考え込んだ。

「そういえば……昔、図書室で借りた本に、似たようなお話がありましたわ」

「どんな話だね?」

「美しい若い女性たちが次々と行方不明になり、ある日、山の古城から、その女性たちの遺体が発見されるのです」

幸炬は少し声を落とした。

「遺体には、全身を針のようなもので刺された跡があり、失血していた……という話でしたわ」

「ほー」徳田が聞き入る

「古城の女主人が永遠の若さを手に入れるため、若い女性の生き血を欲しがったそうで、そのため時計技師を誘拐して地下に工房を作らせ、精巧なからくり人形を作らせましたの。そして、その人形を人間と思わせ、女性と抱き合った瞬間、仕掛けられた針が全身を刺して命を奪う――」

幸炬はそこまで話すと、首をかしげた。

「もちろん、小説ですわ。そんなことが本当にあったとは思っておりません。ただ、その時計技師が、パリで宮廷の時計を作っていた職人だった、というくだりがありまして……」

「それで?」

徳田がさらに身を乗り出す。

「気になって調べてみましたら、当時、貴族たちがこぞって時計を注文していた有名な時計工房があったこと自体は事実でしたわ」

幸炬は記憶をたどる。

「たしか……ルイ・ブレゲ……だったかしら?」

「ルイ・ブレゲ……」

徳田が、その名を口にした。

「ええ。でも、からくり人形や古城の女主人の話は、まったく関係ございませんでしたわ。あくまで小説の中のお話です」

「そうか……あったのか」

徳田は腕を組み、しばらく黙り込んだ。

幸炬は、そんな徳田の様子を不思議そうに見つめた。

そして徳田の頭には、昼間、商館で見た一個の懐中時計が浮かんでいた。

――あの時計は、本当にただの時計なのだろうか。


次の日、徳田は棚橋を伴い、昨日の商館へ向かった。

ところが――。

商館は、固く閉ざされていた。

「徳田、これはどうしたことかね」

棚橋が怪訝そうに尋ねる。

「私にもさっぱり……」

徳田は入口の横にある窓から、そっと店内を覗き込んだ。

「……なんだ、これは」

店の中は、まるでもぬけの殻だった。

ソファーやテーブルには白い布がかけられ、ほこりよけなのか、長い間使われていないような様子だった。

徳田は唖然として、商館の周囲を見回した。

「本当に、この場所なのかね?」

「間違いない。昨日、私は確かにここで……」

そう言いながらも、徳田は急に自信がなくなってきた。

しかし、何度見ても場所に間違いはない。

「……あそこにカフェがあります。ご主人に聞いてみましょう」

二人は商館の向かいにある小さなカフェへ入った。

「ご主人、少し伺いたいのですが……。向かいの商館の持ち主をご存じですか?」

徳田が尋ねると、店主は何気なく窓の外を見た。

「ああ、あそこの商館ね。一年前から、誰もいませんよ」

「……一年前?」

徳田と棚橋は顔を見合わせた。

「昨日、私はあの商館で、貿易商の主人と商談をしたのですが……」

店主は、しばらく徳田の顔を見つめていた。

「お客さん……あそこの主人なら、一年前に亡くなっていますよ」

「えっ……」

「嵐で船が難破してね。荷物と一緒に海の中です」

徳田の背筋に、ぞっとするものが走った。

「……そんな」

店主が声をかけるまで、徳田はしばらく言葉を失っていた。

「お客さん、ご注文は?」

「あ……申し訳ない」

棚橋が気を取り直すように、

「コーヒーを二つ頼むよ」

そう言って、商館が見える窓際の席へ徳田を促した。

「徳田、大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」

「ああ……棚橋、すまない。今日は一緒についてきてくれて助かったよ」

徳田は礼を言い、ようやく少しずつ冷静さを取り戻していった。

「昨日のことを思い返していたんだが……」

徳田は窓の外の商館を見つめた。

「たしかに、貿易商というわりには、店が妙に殺風景だった。従業員もいなかったし、店主らしき男が一人いただけだった」

「そう言われてみれば、不思議な話だな」

「……店の中を、もう少し見てみたい」

徳田がつぶやく。

「何か、手がかりがあるかもしれない」

「徳田、何の手がかりだ?」

棚橋が眉をひそめた。

「時計か? それとも店主か?」

そして、少し声を落とした。

「いずれにしても、一夜にして消えたんだ。諦めたほうがいい。これ以上首を突っ込んでも、ろくなことにならん」

棚橋自身も、妙に嫌な感じがしていた。

それ以上踏み込まないよう、徳田を制した。

「……そうだな」

徳田はそう答えたものの、心ここにあらずといった様子だった。

窓の向こうにある、誰もいない商館。

そして――

昨日、自分が確かにそこで会った男の姿が、頭から離れなかった。


第四章 次男坊の鷺坂


「叔父様、ごきげんよう!」

幸炬は、赤ひげ先生こと芦沢を伴って鷺坂家の屋敷を訪れていた。

今日は、鷺坂家の先代当主の往診の日である。


広い庭には手入れの行き届いた松や植木が並び、古い武家屋敷の趣を残しながらも、玄関には洋風の調度品が置かれている。明治から大正へと時代が変わっても、鷺坂家には昔ながらの家柄と、新しい時代の暮らしが同居していた。

幸炬は慣れた様子で奥の部屋へ入ると、布団の上に横たわる老人を覗き込んだ。

「大叔父様、御加減はいかがかしら?」

返事がない。

「大叔父様?」

幸炬がもう一度声をかける。

それでも老人は目を閉じたままだった。

幸炬は少し首を傾げると、老人の耳元へ顔を近づけた。

「大叔父様! お加減はいかがですの!」

突然の大声に、老人がびくりと目を開けた。

「うるさいのー。聞こえるわい」

「まあ、聞こえていらしたの?」

「聞こえるに決まっとる。今、天国の美しい奥方と遊んでおったのじゃ。邪魔しよって……」

老人は、いかにも不機嫌そうな顔をした。

幸炬は呆れたように芦沢を見る。

「先生……」

「まだまだ元気ですよ」

芦沢は笑いながら老人の脈を取った。

「どこが悪いんです?」

「どこも悪くない」

「では、なぜ往診を?」

「年寄りは、医者に顔を見せておかんと心配する者がおるからの」

「それは患者さんのほうが、先生を心配しているんじゃありませんか?」

幸炬が笑う。

そんな二人のやり取りを聞きながら、老人は鼻を鳴らした。

鷺坂家は、もともとは幕府に仕えた旗本の家柄であった。

維新の際には幕府側に立ったため、新しい政府のもとでは何かと肩身の狭い思いをした時期もあった。

ところが、先代当主の妻の実家が薩摩の島津家につながる家柄だったこともあり、時代の波に完全に取り残されることはなかった。

さらに、先代当主自身がなかなかの社交家であった。

「世の中が変わったのなら、わしらも変わらねばならん」

そう言って新政府側の人々とも積極的に付き合い、いつの間にか新しい時代の人脈を築いていった。

そして、炭鉱への投資が大当たりした。

かつては幕府側として苦労した鷺坂家は、明治の終わり頃には、かなりの財産を持つ旧家となっていた。

そのため、大正の今も鷺坂家の暮らしぶりは贅沢である。

古い武家屋敷の隣には洋館が建ち、応接間には西洋家具が並ぶ。

「古い家柄」と「新しい時代」が、まるで同じ屋敷の中で張り合っているようだった。


そして現在の鷺坂家当主も、少々変わった人物である。

なんと、司法大臣を務めている。

稼業の一切を妻に託し、自分は官僚として忙しい毎日を送っている。

「奥方のほうが商才がある。私なんぞが商売をしたら、身代を潰す」

それが口癖だった。


素人の幸炬が見ても、その言葉には納得できるものがある。

皆、口をそろえて奥方のことを「尼将軍」と呼んでいる。

女中や奉公人への気配り、出入り業者の見極め、商談での采配――。

先代当主のDNAは、どうやら奥方の中に脈々と受け継がれているらしい。

明治から築いてきた人脈と財産、そして時代の流れを読む力によって、鷺坂家は新しい日本の中でも確かな地位を築いていた。

しかし、そんな奥方にとっても、頭痛の種は次男坊の英二であった。

長男の秀一は、真面目で勉強熱心な青年で、現在は外国の司法制度を学ぶため、イギリスへ留学している。

一方、次男の英二はというと――。

兄とは正反対で、勉強は嫌い。出世にも、それほど興味がない。

奥方は、

「いつまでも家でぶらぶらして……」

と、夫に毎日のように愚痴をこぼす始末だった。

夫もうんざりしていた。

仕方がなく父親は、自分の人脈を頼って英二を内務省に入れた。

英二自身に、これといった野心はなかった。

言われた通りに文章を作れば給金がもらえる。

「こんな楽な仕事はない」

そう思って、内務省・警保局に勤めていた。

しかも、友人たちと比べても、なかなか良い給金である。

「まあ、いいか」

そんな調子で、英二は毎日出勤していた。

本人にとっては、家にいてもすることがないから、暇つぶしに役所へ通っているようなものだった。

先代の診察を終えると、幸炬は片付けに来た女中に尋ねた。

「英二さんは、今日はいらっしゃるの?」

「若様でしたら、書斎においでです」

「まあ、珍しい。書斎ですって」

幸炬が笑う。

芦沢先生も苦笑した。

「英二君が書斎にいるとは、明日は氷が降るぞ」

「先生、それは失礼ですわ」

二人が廊下を歩いていると、向こうから英二が現れた。

手には新聞。

そして、いかにも退屈そうな顔をしている。

「やあ、サチさん。先生も」

「英二さん、今まで何をしていらしたの?」

「何って……新聞を読んでいただけです」

「お仕事は?」

「今日は終わりました。土曜日ですからね」

「まあ、そうでしたの。お暇なのね」

「そうでもないですよ。毎日、やることがなくても行かないと、給金がもらえませんからね」

幸子は、しばらく英二の顔を見つめた。

そして、小さく笑った。

「鷺坂家の次男坊は、なかなか優雅なご身分ですこと」

「そう言われると、なんだか嫌味に聞こえますね」

「気のせいですわ」

そのとき、奥の部屋から先代当主の大きな声が響いた。

「おーい、英二! 戻ったのか」

「はい。ただいま」

「そうか。茶を持ってこい!」

英二はため息をついた。

「……僕は内務省の役人なんですけどね」

幸炬は、くすりと笑った。

「お屋敷では、ただの次男坊ですわね」

「まったく、その通りですよ」

こうして、元旗本の名家に生まれ、親のコネで内務省に入り、何の野心もなく毎日を過ごしていた青年・鷺坂英二。

幸炬より年は一歳上だが、幸炬といるとなぜか弟扱いをされてしまう。

それが英二にとっては、少々納得のいかないところでもあった。


しかし――。

その平穏な毎日は少しずつ崩れていくことになる。

なにしろ、英二には本人が望まなくても幸炬がいる限り逃れられない運命なのである。


でもそれはもう少し先に話・・・・





















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