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第100章

 アグリッパは審判廷の教会からそう遠くない町でエレを見つけた。


 彼女は道端にしゃがみ込み、目の前には一匹の猫を抱いた子供がいた。その猫は高いところから落ちたらしく、後ろ足が力なく垂れ、微かな嗚咽おえつを漏らしている。


 エレは手を伸ばし、そっと猫の背中を撫で、数か所を軽く押さえた。淡い紫色の光球が彼女の掌から浮かび上がり、猫の傷ついた足に没入する。数秒後、猫の足が動き、そして立ち上がり、元気に跳ね回りながら子供の胸に飛び込んだ。


 子供は泣き笑いし、猫を抱えて走り去った。


 アグリッパはその場に立ち、彼女が終わるのを待ってから歩み寄った。


「エレ、ちょっといいか?」


「は、はい、アグリッパ様」エレは立ち上がり、声は少し緊張していた。


「どうやって外に出られたんだ? あの人たちは見張っていなかったのか?」


「カ、カサンドラ様が外に出してくれたんです」エレはうつむき、指で服の端を弄った。「彼女はとてもお優しい方です。それに……レテ様も、私の能力はすごいとおっしゃってくれました……」


「そうか?」


 アグリッパの心は微かに沈んだ。活規則いきいきがまさか神の欠片を自由に行動させるとは? 珍しい。いや、そうでもない――三柱の御方はただの生きた世界の規則であり、その規則は決して白か黒かという絶対的なものではないのだから。


 彼はしばし沈黙し、話題を変えた。


「エレ、もし世界を救うために君の犠牲が必要だとしたら、どうする?」


 エレは顔を上げた。その目に躊躇ちゅうちょはなかった。


「私……私は犠牲になります。みんなを救えるなら」


「なぜだ? それでは自分を軽んじることにならないか?」


「これは軽んじることではありません」エレの声は突然どもらなくなった。まるでこの言葉は心の中に長くしまわれていたかのようだ。「自分の命を大切に思うからこそ、みんなのために犠牲になるのです」


 アグリッパは彼女を見つめ、それ以上反論しなかった。


 英雄願望えいゆうがんぼうか? 自分自身もまた、そうではないと言えるだろうか。彼のしてきたこと――三柱の活規則の間を立ち回り、密かに神の欠片を観察し、ヴィラニアと対峙することをいとわなかったこと――それらもまた、一種の自己陶酔的な犠牲ではなかったか?


「では、私は君に『モーリガン』という娘を探してほしい」と彼は言った。「そして必要な時に犠牲になってほしい。君はそれを望むか?」


「も、モーリガン?」エレの目が輝いた。「あの……予言の子ですか?」


「そうだ。どうやら君はよく知っているようだ」


「レテ様が……教えてくれたんです」


「彼女は何と言っていた?」


「彼女、彼女は……自分と他のお二方のしていることも、同じく世界を救うためなのだと。ただ、それを理解できる者は……ほとんどいない、と」


「なぜ理解されない? 彼女たちは何をしている?」


 アグリッパは問い詰め、自分の推測を確認しようとした。


「アグリッパ」


 突然、虚無きょむから声が聞こえた。平静で、清らかだ――カサンドラだ。


「暇なら、エレをアイセロンまで連れて行け。お前の者たちは払拭のふっしょくのほむらを持ちながらもなお連戦連敗れんせんれんぱいだ。この戦争を終わらせたのは、あの予言の子だ」


 アグリッパは振り返らないが、その声には微かな警戒が混じる。


「仕方ありません、カサンドラ様。何と言っても私の者たちはただの普通の人間です。神の力を宿す欠片を相手にすれば、敵うはずがありません」


「そうか? ただお前がそうしたくないだけだろう」


「あなたを騙すことはできません、カサンドラ様」アグリッパの声が沈む。「しかしご存じでしょう、審判廷が存在する前提とは、神の欠片を制御することです。そしてヴィラニア様の所業しょわざには、その前提が考慮されていません」


「つまり、私たちのやり方は間違っていると言うのか?」


「ただ異議があるだけです」アグリッパは顔を上げ、虚無を見つめた。「どうかヴィラニア様に伝えてください。私が卑屈ひくつに振る舞うのは、ただ世界の規則への敬意を表しているに過ぎません。もしあなた方が私を欺いて恣意しいに振る舞い続けるなら――あなた方の『生きている』状態は、私にも保障できません」


 沈黙。


 カサンドラは怒らなかった。その声にはむしろ諦めのようなものが混じり、まるで分からず屋の子供を見るかのようだ。


「脅しはよせ。凡人ぼんじんには、私たちが何をしているか永遠に理解できぬ」


 彼女は一瞬間を置いた。


「私が彼女を連れて行く。お前は行くな」


 その言葉と共に、一団の炎がエレのそばに音もなく凝縮ぎょうしゅくした。レテが炎の中から歩み出る。その身にはまだ消えきらない火星が付いている。


「レ、レテ様」エレはうつむく。


「行くぞ、エレ」


 レテの口調は珍しく、いつもの子供っぽさはなく、むしろ一抹の真剣さを帯びている。


「姉さんが言っていた。あそこには、お前を必要としている人がいる、と」


「はい」


 レテは手を上げ、炎がエレを包み込む。次の瞬間、二人は一筋の流れる火となって、遠くへと飛び去っていった。


 アグリッパはその場に立ち、炎が空の彼方に消えるのを見つめていた。


 心の中に、ふと虚無感きょむかんが湧き上がる。


 自分のこの判断は――一体、正しかったのだろうか?


 エレを信じて、彼女は本当に自分の言った通りにしてくれるだろうか?


 答えはない。ただがらんとした町の通りに立ち、風が吹き、枯れ葉を何枚か運んでいく。

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