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第九十八章

 戦争は終わった。


 しかし戦争がもたらした一つの感情は、決して消えることがなかった。


 憎悪ぞうお


 それはついに完全に活性化かっせいかされた。


 彼女の名はネメシス。


 元々はただ、理由もなく体に名前が現れるだけの存在だった――その名前は彼女に吐き気をもたらした。たとえその人たちに一度も会ったことがなくても。


 そして彼女は彼らの前に現れ、彼らが他人にくわえた罪と同じ方法で、彼らを処刑する。


 彼女の評判ひょうばんは広まっていた。戦争がそれを加速させた。


 ネメシスは、弱者の守護神であり、強者のやとい兵だ。


 誰かに対する憎しみが頂点に達すると、その者の名前がネメシスの体に現れる。


 そしてその憎しみがもたらす痛みが、ネメシスを次第に苛立いらだたせる。


 その名前を消すために、彼女は手段しゅだんを選ばず相手を殺す。


 今、ネメシスの全身で最も痛く、最も吐き気をもたらす名前は――「戦争」だった。


「誰だ! 一体誰が『戦争』という名だ!」


 道を歩いていたネメシスは、一発で道端の木をへし折った。


 幹の折れる轟音ごうおんが木の上の鳥を驚かせ、数人の通行人が呆然ぼうぜんと彼女を見つめる。


 彼女はうつむき、自分の腕に現れた灼熱するような名前――「戦争」――を見つめた。それは決して癒えない傷のように、皮膚の下で蠢いている。


 すぐに、戦争の姿が彼女の目の前に現れた。


 蒸気人? なら彼がどこにいるか分かった。


 彼女は振り返り、殺意さついに満ちた目で、見とれていた通行人を追い払った。


 そして彼女は走り出した。


 この場所が自分からどれほど遠くにあろうと、彼女は馬にも車にも乗ろうとしなかった。


 自分の足で「仇」のもとへ走っていくつもりだった。


 復讐にどれほどの代償がかかるかを、自分自身に思い知らせるために。


 たとえそれが自分自身に課したものであっても、彼女はそれを共に受け止めるつもりだった。


「お前を殺せば疲れなくなる! お前を殺せば悲しくなくなる!」


 走りながら叫び、ネメシスはサンタリアへと向かって駆け出した。


 ◇◇◇


 アイセロン城では、捕虜の処遇を決める協議きょうぎが行われていた。


 長い食卓の両側には、エルフ各部族の使者たち、アイランサー、アイウェシル、スタシス、そしてモーリガンの一行が座っていた。


 緊張きんちょうめ、引き絞られた弓の弦のようだった。


背後はいごで糸を引いていたあの白光の女を殺すべきだ!」


 一人のエルフ使者が机を叩く。


「彼女のせいで、人魚たちがここまで私たちを憎むこともなかったはずだ!」


「彼女も無意識のうちにです」


 スタシスの声は平静だ。


「彼女は『誤解』の欠片です。自ら積極的に能力を使わなくても、能力は溢れ出てしまう」


「では、なぜあなたは能力を制御できるのですか? スタシス様」


「私が彼女たちとは違うからです」


「なら、戦争を直接処理してしまえ!」


 別の使者が口を挟む。


「彼がいなければ、自然と紛争もなくなる」


「戦争は誰かを殺せば消えるものではない」


 スタシスは首を振った。


「ポレモスはただの戦争の欠片です。彼は戦争そのものではない」


「では、あなたはどうしたいのだ? 小さな星」アイランサーが尋ねる。


 スタシスはすぐには答えなかった。


 彼女はアイウェシルを見た。


「姉さんの言う通りにします」アイウェシルが言う。


 スタシスは深く息を吸い込み、モーリガンに向き直った。


「モーリガン、あなたは彼らを受け入れるつもりはありますか? あなたが私たちを受け入れてくれたように」


 モーリガンは長い食卓の向こう側に座り、指で机の面を軽く叩いていた。


「もちろん」と彼女は言った。


 会議は終わった。


 ◇◇◇


 会議室を出ると、タナトスが背伸びをした。


「この戦争のせいで、ここ数日はろくに眠れそうにない」


「なぜだ?」パシュースが尋ねる。


「魂が皆、私のところに集まってきている」


 タナトスはため息をついた。


「彼らに魂の葬儀を執り行い、輪廻りんねに送り出さなければならない。忙しいんだ」


「手伝おうか?」


「病気のお前に何ができる? 代わりに話し相手になってくれるくらいか?」


「ならいい。お前の話し声は聞きたくない」


「おいおいおい、お前が手伝うって言い出したんじゃないか?」


 パシュースは答えず、足早に前に歩いていった。


 タナトスは頭をかき、仕方なさそうに笑った。


 ◇◇◇


 モーリガンはオネイリを見つけた。


 オネイリは深海から戻ったばかりで、産毛はまだ完全には乾いていなかった。


 ケーリスは彼女の腕に縮こまり、星の渦が一瞬一瞬と輝いている。


 モーリガンは彼女の前に足を止めた。


「勝手に私たちのところを離れたのは、深海に行くためか?」


 オネイリはうつむいた。


「そうです。ごめんなさい」


「なぜだ?」モーリガンが尋ねる。「明明、お前は海がそんなに怖いのに」


 オネイリはしばし沈黙した。


「海が私を呼んでいたからです」彼女の声はとても軽い。「幻覚でも、悪夢でもない。家に帰るような感覚でした」


「誰が連れて行った?」


「ステュクスです」オネイリが言う。「あの深海の大きな蛸です。カロンは彼女を知っています」


 モーリガンは、カロンが確かにその名前を口にしていたのを思い出した。


「彼女は何を話した?」


「彼女は……私たちはこの世界の創造物ではないと言っていました」


 オネイリの声はさらに低くなった。


「銀羊族と深海触手族は同源で、同じ旧神の欠片が分裂したものだと。聖山は夢の入り口であり、深海は深淵しんえんの出口だと」


「他に何か言っていたか?」


 オネイリは首を振った。


「いいえ。それから彼女は私を自分の家に連れて行きました――聖山と全く同じ姿をした珊瑚の森です」


 彼女は一瞬間を置いた。


「でも、私は思うのです……彼女はもっと知っている。ただ教えてくれなかっただけだと」


 モーリガンはそれ以上問い詰めなかった。彼女はうつむいてケーリスを見た。


「まずステュクスに会いに行こう」モーリガンが言う。「私が直接彼女に尋ねる」


 ◇◇◇


 地下牢ちかろうの中で、ステュクスは一室に独房どくぼうされていた。彼女は壁の隅に寄りかかり、触手を静かに地面に垂らしている。


 足音を聞いて、彼女は顔を上げた。真っ黒な瞳に星の点が微かに輝く。


「モーリガン。あの小さな子のことを聞きに来たんだろ?」


 モーリガンはしゃがみ込み、視線を彼女と同じ高さに合わせた。


「オネイリが言っていた。あなたは彼女に、私たちはこの世界の創造物ではないと話したそうだ」


「うん」


「他に何を知っている?」


 ステュクスは首をかしげ、その視線をオネイリの腕の中のケーリスに注いだ。


外域存在いききそんざい実験じっけんをしている。ある存在を最後の一匹になるまで剥奪した時、その存在が何になるのかを知りたがっている」


「何になる?」モーリガンが尋ねる。


「神の欠片」


 ステュクスの触手がそっと揺れた。


「孤独の痛み――外域存在はこの小さな子を孤独の痛みにしたかった。だから彼女の種族は彼女だけが残った」


 ケーリスの星の渦が一瞬暗くなった。


「彼女だけじゃない」


 ステュクスは続ける。


「多くの古い種族がこうして消えた。彼らはそれらの種族を一つずつ絶滅させ、最後の一匹だけを残した」


「なぜだ?」モーリガンが尋ねる。


「なぜなら彼らはお前に神になってほしいからだ」


 ステュクスはモーリガンを見る。


「彼らは全ての苦痛を内包ないほうする器を必要としている。ケーリスの孤独は、お前の苦痛とまさに共鳴する。だから彼らはケーリスをお前の前に現れさせた――あの暗室で、お前が最も仲間を必要としていた時に」


 モーリガンは沈黙した。


 彼女はあの日を思い出していた。


 暗室、石台、木の洞。


 あの影の中に縮こまる小さな影。


 彼女が手を差し伸べると、ケーリスは長く躊躇い、ようやく彼女の指先に擦り寄った。


 それは偶然ではなかった。


 ケーリスがオネイリの腕の中から顔を出した。彼女の思念が途切れ途切れに届く。


 私……知らなかった……


 星の渦が暗くなった。


 モーリガンは手を伸ばし、指先でそっとケーリスの頭頂に触れた。


「後で話そう」と彼女は言った。


 ◇◇◇


 廊下のたりから、急ぎ足の足音が聞こえてきた。


 カリオペがよろよろと石段を駆け下りてきた。腕にはヘマリスを抱えている。


 霧でできた体が薄く消えかけている。


「モーリガン! 大変だ!」


 彼女の声は砕けたガラスのように鋭い。


「お願いだ! ヘマリスを助けてくれ!」


「どうした?」モーリガンが早足で近づく。


「誰かが……私がヘマリスを憎んでいるって言った……」


 カリオペの声が震えている。


「だから、私の代わりに手を下したんだ」


 モーリガンはしゃがみ込み、手を伸ばしてヘマリスの糸に触れた。


 あの霧灰色の糸が一本また一本と切れている。


 しかし彼女には癒せない。


 モーリガンは手を引っ込めた。


「私にはできない」


 カリオペはヘマリスを抱える手を震わせる。


 あの霧はますます薄くなり、もうほとんど見えなくなっている。


「では……誰が……」


「誰か分かった」


 カロンの声が隣の牢房から聞こえた。


 彼女は鉄格子に寄りかかり、流体の衣はまだ完全には回復しておらず、墨綠色の甲冑かっちゅうにはひび割れが無数に走っている。


「誰だ?」モーリガンが尋ねる。


「私はあの時、彼女も欠片だということに気づかなかったんだ」


 カロンの声は低い。


「私がエルフを極度に憎んでいた日々、彼女はよく私のベッドのそばに現れた。彼女は尋ねた――もし私が承知すれば、彼女が代わりに手を下し、全てのエルフに代償を払わせてやる、と」


 彼女は一瞬間を置いた。


「彼女は自分を――ネメシスと呼んでいた」


 モーリガンは振り返り、ステュクスを見た。


「ネメシス――あなたは彼女を知っているか?」


 ステュクスの触手がそっと揺れた。


「聞いたことはある。復讐の欠片だ」


 モーリガンはそれ以上問わなかった。彼女は振り返り、廊下のやみおくを見つめた。


 そこには何もない。しかし彼女は知っている。誰かがもう来ていることを。

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