熱気
仄かな熱気、僅かな狂気。ぬるい風に乗せられてそれらがクロムの鼻先まで届く。
額ににじむ汗を湧き上がる不愉快さと合わせて拭い去ろうとするが、後から後から吹き出るそれはいくら拭いても消え去りはしない。
もうすぐ暑さのピークは過ぎ、収穫の季節がやってくる。それだというのに今は男たちは農具の代わりに剣や槍を握っている。
数刻前に国王直々に与えられた高説により生まれた昂りは時間とともに薄れ、今は不安と半々といったところだろうか。
クロムの眼前には約二千の兵士が隊列を組んで移動している。先方には先遣隊が五〇〇人、別働隊がもう千人ほど。目指しているのはリュグレムシアとの国境付近に存在する、ある砦だった。
つい最近までそれはアーケリアの支配下にあった。名を「レーム砦」という。両国間を繋ぐ道の途上に存在しているが、砦のある山を通らねばリュグレムシアへと向かう大きな陸路は他にない。他には海路もありはするが、代々海軍が弱いアーケリアにとって陸路を維持することはことさら重要である。
リュグレムシアの指導者と国名が変わって以来、うやむやになっている休戦協定があるが、それが頼りになるほど互いの国がある大地に染みた血の量は少なくはない。
アーケリア国王デミュニオス二世がいくら穏健派とは言え、要所をおざなりにするほど耄碌はしていない。ただ迂闊なだけだ。あるいはリュグレミア・グルゴル、現リュグレムシア国王を侮っているか。
だから砦には彼が思う、十分な兵を備えてあった。必要と思われるだけの蓄えもあった。しっかりと定期的に報告をさせるよう、兵の交代も欠かさなかった。しっかりと、“三ヶ月も報告がないことに気が付かぬ程度”には万全な備えがあった。
つまり少なくともそれ以前にその砦は陥落していたのだ。相手は十中八九、リュグレムシアだ。これにはさすがのデミュニオスも重い腰を上げざるを得なかった。兵をかき集め、国庫を開き“来春”には準備か整う手筈だった。
そんな呑気な計画を一部側近が激しく糾弾し、時に剣の柄に手をかけるほどに白熱した論戦の末、国王が折れる形で決着がついた。
それが今年の春の出来事であり、雪が降るより前ということで大慌てで国中から兵をかき集めた。当然その士気は低く、さらには侵略戦争ではないゆえに勝ったところで得るもののないことが前からわかっている。
そのことを誤魔化すべく国王は“その先”を示唆するような発言を兵たちの前でした。沸き立つものもいたが、全員が納得したわけではない。
さて一番の問題だが、そもそもなぜ自分がこの場所にいるかということだ。“自分”ではなく“我々”なのだが、つまりこのお飾り騎士団にお鉢が回るということ自体が異常事態である。それだけ本気さをアピールする必要があったということだが、当然団員の半数を占めるボンボンたちの親である貴族の反発も強かった。もはや言葉も飾らず「何の役に立つのか」とまで言ったものもいるとか。
概ねその通りなのだが、むしろそうした立場の人間が先頭に立つことで人々を奮い立たせられると考えたのだろう。そこに例のファガロム・オーダンの助言があったかは定かではない。
今回の作戦の重大さを示す一つに、彼の招集がある。アーケリアでも指折りの精鋭部隊であるファガロム以下、その軍団を動かすことは国内の情勢に影響を与えかねない。それでも必要とされたのだからことの大きさがわかる。
そうして気乗りしないどころではない行軍の最中、ふと横を見る。団の殆どが他と同じく徒歩での移動なのだが、ごく一部、つまりロズラーサとその補佐のコレッサ・セナルドだけが騎乗しての移動となっている。
目的は考えるまでもなく戦意高揚のためである。当人は不服だろうが、その美貌を見るだけでやる気を高める者もいるのだ。それを見やすくするためだけに馬に乗せている。
しかしこちらの心配をよそにロズラーサは活力に溢れ、時に彼女に見惚れる者に笑みを向けることもあった。それを受けた男はその場で失神しかけるほどで、横のものから嫉妬にかられている。
彼女はこうした立ち回りが苦手、嫌いかと思っていたのだが予想外にノリノリである。それだけ今回の作戦にかける思いが強いのだろう。そのためならば人形のような扱いも受け入れているのだ。
こちらとしてもその思いに報いたい気持ちはあるが、おそらくだがその出番はないだろう。どこまでいっても我々はお飾りであって、本当に戦力として期待されているわけではない。
自分はそれで大いに結構なのだが、彼女は違うだろう。コレッサと熱心に話す彼女を見ると少しばかり哀れにも思えてしまうが、彼女も命の危険にさらされることもないのだ。今はそれを喜びたい。
それらも全てこの戦がどうなるかだが、それが一番の心配の種である。自分の立場では敵の兵数やその練度など知る由もないが、少なくともこちらのそれは決して高くない。それに加えてこの国は戦から離れて久しい。今回指揮を取る者もこれといった戦果などはない、それを挙げる機会そのものがなかったからだ。
こちらの胸の内を写すが如く、燦々と照らしていた日は陰り分厚い雲が空を覆い始めていた。
砦に到着するまであと二日。




