第七章 反対はしない
オールデンは母を見た。
「親父も、売ろうとしたのか?」
レノラは彼の資料をもう一枚めくった。
「一度だけね」
「いつ?」
「ずいぶん前。ひどい年だった。大口の客が二社、発注を先延ばしにした。でも給料日は待ってくれなかった」
オールデンは椅子に座り直した。
「ある晩、帰ってきて言ったのよ」
レノラは続ける。
「“店に食われる前に、こっちから店を売ったほうがいいかもしれない”って」
そんな話は、一度も聞いたことがなかった。
「何が止めた?」
「売ったあと、何をするつもりなのって訊いた」
「それで?」
「答えがなかった」
「じゃあ、思い入れで残したのか」
レノラは平たい目で息子を見た。
「あなたのお父さんは、レンチにだって愛着を持つ人だった。でも給料の支払いに感傷を持ち込む人ではなかったわ」
「じゃあ、なぜ?」
「敷地をもう一度、全部見て回ったの」
オールデンは自分のファイルへ目をやった。
「数字じゃなくて?」
「数字は私の仕事だった」
「親父は何を見てた?」
「売ったら、次に何をもう一度作り直さなきゃいけないか」
レノラはオールデンのメモを指先で叩いた。
「客は離れる。機械は古くなる。ひどい冬が一度来れば、その年の商売が台無しになることだってある。でも土地を売ったら、次の商売ではまた土地を買わなきゃいけない。道路を造って、電気を引いて、倉庫を探して、修理場を整えて、人を集める。全部、最初から」
オールデンはその朝、自分で作った分類を思い出した。
土地。
道路。
電力。
倉庫。
修理。
表計算の中では、どれも別々の行だった。
「作り直すほうが高くつくと判断した?」
「それもある」
「もう一つは?」
レノラは窓の外を見た。
「あの人には、まだ“ここを何に使いたいか”がわかってた」
オールデンは待った。
「それが答え?」
「お父さんにとってはね」
「じゃあ、俺には使い道がわからないなら?」
「売るのが正しいかもしれない」
喧嘩を売られるより、その答えのほうが腹立たしかった。
「母さんは工場を大事にしてるだろ」
「もちろん」
「なのに、止めようとしない」
「大事にすることと、所有することは、同じ仕事じゃないから」
オールデンは思わず笑いそうになった。
「今週に限って、ずいぶん刺さる言い方だな」
「気づいてたわ」
彼はファイルへ目を落とした。
「親父は、残したことを後悔した?」
「しょっちゅう」
「励みになるな」
「あの人、除雪機を一台売ったこともずっと後悔してたわよ。後悔は意思決定の仕組みにはならない」
オールデンは、とうとう笑った。
レノラはファイルを彼のほうへ押し戻す。
「売るなら、“何を売っているのか”をわかった上で売りなさい」
笑みが消えた。
そこで初めて、母が反対しないことに自分がなぜ苛立っていたのか、オールデンにもわかった。
レノラは工場を救えと言っているのではない。
終わらせるなら、その責任を自分で引き受けろと言っているのだ。
レノラが台所を指さした。
「それより、何か食べなさい」
「コーヒーは飲んだ」
「それは食事じゃない」
「カリフォルニアでは食事扱いだ」
「ここはアラスカ」
「俺はここで育ったんだけど」
「なら、なおさら言い訳できないわね」
オールデンは冷蔵庫を開けた。
卵。
残り物。
薬。
それから、違う筆跡のラベルが貼られた保存容器が三つ。
「誰がこんなに食べ物を持ってくるんだ?」
「人」
「名前じゃない」
「名前まで要らないでしょう」
一つの容器を持ち上げる。
MORROW HOUSE
モロウ・ハウス。
「モロウ・ハウス?」
「昨日、マレンが持ってきてくれたの」
手が止まった。
レノラは見逃さなかった。
当然だった。
「引っ越したと思ってた」
「引っ越したわよ」
「戻ってきたのか?」
「あなた、ずいぶん長くいなかったから」
「それはわかってる」
「いいえ。地理的にはわかってるだけ」
オールデンは容器を冷蔵庫へ戻した。
「マレンはモロウ・ハウスで何してる?」
「行って見てくれば?」
「ここで食べればいい」
「それでもいいし、うちの冷蔵庫を尋問するのをやめてもいいわね」
レノラが歩行器へ手を伸ばす。
オールデンは反射的に立とうとした。
母の目が向く。
止まった。
レノラは自分で立ち上がった。
「ほら。平気」
「手術しただろ」
「それでも私は、かなり死ににくい」
「基準そこじゃない」
「私の基準はそこ」
オールデンは鍵を取った。
「モロウ・ハウスって、まだフロント・ストリート?」
「移転した」
「だろうな」
「川の近くの、昔の飼料店」
二十分後。
オールデンはその店を見つけた。
古い飼料店の面影は、骨格に目を凝らせば、まだ残っていた。
正面の一部は大きな窓に変わっている。
砂利敷きの駐車場はほとんど車で埋まっていた。
入口の上には、手描きの看板。
MORROW HOUSE
モロウ・ハウス。
ガラス越しに、コーヒーカウンターが見えた。
席はかなり埋まっている。
奥にはもう少し広い部屋があり、誰かが椅子を並べていた。
オールデンは、食堂のようなものを想像していた。
どうやら、その認識も古かったらしい。
トラックを降りる。
入口へ着くより先に、扉が開いた。
空き瓶の入った箱を抱えた女が出てくる。
マレン・ベルは、オールデンを見た。
足を止める。
オールデンも止まった。
マレンは一度だけ、彼を上から下まで眺めた。
カリフォルニアで着ていたジャケットから、たぶん本人が隠せていない表情まで。
そして言った。
「へえ。シリコンバレーも、たまには一人くらい返してくれるんだ」
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本作は、作者本人が海外の小説投稿サイトで発表しているオリジナル作品の日本語版です。
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――東川鬼面斎




