第四十五章 私は、残ったんじゃない
翌日。
「先に言うけど、履歴書みたいなところはもう知ってるでしょう」
マレンは奥の部屋へ椅子を運びながら言った。
「アンカレッジ。飲食。マネージャー。新店立ち上げ」
「よくできました。じゃあ面接は省略」
「昨日、“続き”を話すって言った」
「続きは、そんなに格好よくないよ」
「そのほうが役に立つ」
「カリフォルニアで少しは学んだね」
税務相談会まで二十分。
マレンは最後の机を直し、壇上へ腰を下ろした。
オールデンは近くの椅子に座る。
「最初のアパートはワンルーム。コンロが左に傾いてた。家賃と食費とガソリン代で、何も起きなければ暮らせた」
「何か起きた」
「小さいことが全部」
車のブレーキ。
年明けのシフト減。
食材は計画して買うと長く持つ。
安い部屋を探すより、二つ目のシフトを探すほうが早い。
「それでも、出たこと自体はうまくいった?」
「うん」
「いつまで?」
マレンが見る。
「なんで“いつまで”がある前提なの?」
オールデンは少し黙る。
「ないのか」
「なかった」
街が邪悪だったわけではない。
ひどい上司に裏切られたわけでもない。
働いた人たちの多くは普通にいい人だった。
アンカレッジは、彼女を失敗させなかった。
「じゃあ何が?」
「私が普通に失敗した」
アシスタントマネージャーになれなかったこともある。
理由は単純。
まだ足りなかった。
「そう言われた?」
「うん」
「正しかった?」
「完全に」
「納得まで?」
「三週間」
「俺より早い」
「知ってる」
それでも辞めなかった。
勤務表。
原価。
在庫。
人を辞めさせるとき、残酷にならない言い方。
客へ“できない”と言う方法。
厨房のほうが正しいとき、自分の間違いを認める方法。
そういうものを覚えた。
そのうちマネージャーになった。
新しい店も手伝った。
「でも数年経つと、“出たこと”自体は特別じゃなくなった」
「何になった?」
「火曜日」
オールデンは笑った。
半分の人生を、“ここを出なきゃ”と思ってきた。
実際に出た。
その先で待っていたのは、
仕事。
家賃。
友達。
変な音のする車。
「不公平なくらい普通だな」
「ものすごく腹立った」
でも仕事はうまくなった。
知り合いも増えた。
街もわかるようになった。
誰も故郷へ帰れと言ってこない。
それでも、帰ることを考え始めた。
「なんで?」
「自分の店が欲しくなったから」
オールデンが口を開こうとすると、マレンが指を向ける。
「立地とか市場とか、数字の話はもうしたからね」
黙る。
「言ってなかったのは、答えが嫌だったこと」
「何が?」
「モロウ・クリークが一番合理的だったこと」
戻るほうが、出るより怖かった。
出るのは野心に見える。
戻るのは、負けに見える。
少なくとも、自分には。
「距離が“成長した証拠”みたいになってたから」
ここへ戻れば、
“結局、都会に憧れてただけだったね”
そう思われる気がした。
「実際、誰か言った?」
「似たこと言う人はいた。でも大半は言わなかった」
「じゃあ、誰と戦ってた?」
「自分。かなり効率よく」
アンカレッジの契約更新をする寸前までいった。
何年も出たがっていた町へ戻る理由を説明するより、そのほうが楽だったから。
「何が変えた?」
「別に何も」
マレンは部屋を見回した。
折り畳み椅子。
傷のある床。
コーヒーサーバー。
あと十分で、冬のコートと税金の書類を抱えた人たちがここへ来る。
「“戻ったらどう見えるか”じゃなくて、“ここで作れる暮らしが欲しいか”って考えた」
「で?」
マレンは周囲を示した。
「これ」
華やかではない。
でも、存在している。
自分が作った場所。
「欲しかったんだな」
「うん」
「戻るほど?」
マレンは首を振った。
「その言い方、やめて」
「何が?」
彼女はまっすぐ見る。
「私は“残った”んじゃない」
少し間。
「戻ってきたの」
入口が開き、人の声が聞こえた。
マレンが立ち上がる。
「相談会」
オールデンも椅子を片づける。
資料の束を半分渡された。
「いるなら、働いて」
彼は受け取った。
今度は、何も言わなかった。
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本作は、作者本人が海外の小説投稿サイトで発表しているオリジナル作品の日本語版です。
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――東川鬼面斎




