第四章 母さんに手が要る
「何があった?」
ギャリックは大げさにせず答えた。
「お前の母さんが転んだ。脚を痛めた。手術は問題なく終わったが、運転も重い物を持つのも駄目だ。それから一日じゅう、医者の指示は自分以外の誰かに向けられたものだって顔をするのもな」
オールデンは段ボール箱を抱く腕に力を入れた。
「いつ?」
「数日前」
「それを今聞くのか?」
「電話するなと言われた」
「だろうな」
「お前は忙しいからって」
オールデンはガラス扉の向こうを振り返った。
ついさっきまで自分のものだったオフィスが、一箱に収まっている。
「もう忙しくない」
ギャリックが一瞬、黙った。
「大丈夫だ、オールデン」
「手術したって今言っただろ」
「大丈夫だと言った。何でも一人でできるとは言ってない」
「家にいるのか?」
「ああ」
「誰が一緒にいる?」
「俺が様子を見に行ってる。町の連中も何人か」
「そういう意味で聞いたんじゃない」
「ああ。お前が聞きたいのは、“帰る必要があるか”だろ」
オールデンは何も言わなかった。
ギャリックは沈黙を急かさない。
やがて言った。
「母さんと話せ」
通話が切れた。
オールデンは段ボール箱を腰に抱えたまま、エレベーター脇に立っていた。
扉が開く。
乗らなかった。
レノラへ電話をかける。
四回目の呼び出し音で出た。
「私は大丈夫」
オールデンは目を閉じた。
「もしもし、くらい言ったらどうだ」
「ギャリックが電話すると思ってた」
「電話するなって言ったんだろ」
「だから、すると思ったのよ」
「何があった?」
「転んだの」
「そこは聞いた」
「脚を痛めた」
「そこも聞いた」
「医者が必要なところを直した。私は家にいる。薬もある。心底気に入らない歩行器もある。報告終わり」
二人の社員が近づいてきたので、オールデンはエレベーターから少し離れた。
「なぜ俺に電話しなかった?」
「仕事があったでしょう」
「来られた」
「来て何をするの? 外科医の横に立ってた?」
「そばにはいられた」
レノラが黙った。
次に聞こえた声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
「今からでも、いたいならいられるわよ」
またエレベーターが来た。
オールデンは扉が開き、そして閉じるのを見送った。
「何週間くらい制限がある?」
「数週間」
「運転は?」
「駄目」
「階段は?」
「ゆっくりなら」
「工場は?」
「オールデン」
「つまり駄目だな」
「つまり、故障した機械みたいに私を点検しながら工場の話をする気はないってこと」
オールデンは思わず笑った。
その直後、レノラが訊いた。
「カリフォルニアは、どれくらいひどいの?」
笑みが消えた。
「ギャリックから聞いた?」
「いいえ。ギャリックは、そこまで馬鹿じゃない」
オールデンは腕の中の箱を見下ろした。
「経営から外れた」
レノラは「かわいそうに」とは言わなかった。
取締役会を馬鹿だとも言わなかった。
代わりに聞いた。
「会社の持分はまだあるの?」
「ああ」
「お金を奪われた?」
「いや」
「法律を破られた?」
「いや」
「なら、高い勉強をしたのね」
オールデンは壁を見つめた。
「母さんとギャリック、話してるだろ」
「同じ町に住んでるのよ」
「答えになってない」
「十分でしょう」
オールデンは箱を反対の腕へ移した。
「こっちに残るつもりだった」
「何のために?」
「次の会社を考える。人に会う。何か始めるかもしれない」
「来週、始めなきゃいけないものがある?」
「ない」
「明日、会わなきゃいけない人は?」
「いない」
「仕事のオファーは?」
「ない」
レノラは待った。
何をしているのか、オールデンにはわかった。
そして即座に嫌になった。
「だからって、こっちに何もないわけじゃない」
「ないとは言ってないわ」
「リストを作ってるな」
「リストはあなたに教わったもの」
「断じて教えてない」
「十二歳のとき、お父さんの工場で在庫表を作ってたでしょう」
「誰もラベルを付けてなかったからだ」
「お父さんは付けてたわ」
「俺より古い部品に“良品”って書いてただけだ」
「実際、良品もあった」
オールデンはエレベーターの階数表示を見た。
数字は上がったり下がったりしている。
周囲では、社員たちがいつもどおり帰宅していく。
自分の社員証もまだ腰に下がっている。
だが、朝と同じ意味はもう持っていない。
カリフォルニアに残ろうとしていたのは、ここを離れることが敗走に見えたからだ。
けれどそれは、残る理由があることとは違う。
「工場は?」
オールデンが訊いた。
レノラは少し間を置いた。
「工場がどうしたの?」
「ギャリックは、ほとんど動いてないって」
「まあ、そうね」
「それでも維持費を払ってる」
「月によっては、払いたくない額をね」
「なら、俺がいるあいだに整理できる」
レノラはすぐには答えなかった。
オールデンは続けた。
「設備を全部洗い出す。売れるものを調べる。土地も確認する。母さんは治す。俺は事業を片づける。それからこっちへ戻る」
「どれくらい?」
「数か月」
「もう決めたの?」
「今決めた」
「そういう意味じゃないでしょう」
オールデンは壁にもたれた。
「……いや。飛行機に乗ること以外は、何も決めてない」
「それならいい」
「いい?」
「わからないことを、わからないって認めてるときのあなたは、一緒に暮らしやすいもの」
「切るぞ」
「ちなみに、私は大丈夫だから」
「最初にそれを言った」
「それでも信じてないでしょう」
「ああ」
「なら、見に来なさい」
通話が静かになった。
オールデンはスマートフォンを下ろした。
数秒間、そこに立っていた。
もう自分が動かしていない会社と、三度も乗り損ねたエレベーターのあいだで。
そして箱を抱えたまま、階下へ降りた。
その夜。
自分のアパートは、記憶にあるよりずっと“住まい”らしくなかった。
家具は、慎重に選んだと思える程度には高価だった。
けれど、どれをどう選んだのか思い出せない程度には無個性だった。
キッチンには食べ物よりコーヒーのほうが多い。
ベッドの上には、何もどかさずスーツケースを広げられた。
ノートパソコンを開く。
すでにメッセージが届いていた。
リクルーター。
創業者。
投資家。
何が起きたのかを十分に聞きつけて、彼が突然“空いた”ことを知った人々。
ある創業者は、その夜のうちにCTOポジションと株式報酬の話をしたいと書いていた。
オールデンは二度読んだ。
返信はしなかった。
代わりに航空券の検索画面を開く。
サンフランシスコからフェアバンクス。
座席を選び、支払いを済ませ、旅程をレノラへ転送した。
一分も経たずに返信が来る。
上着を持ってきなさい。
オールデンは打った。
六月だぞ。
入力中の点が三つ現れた。
そして返信。
だから、あなたが長く離れすぎたってわかるのよ。
翌朝。
オールデンはスーツケース一つと機内持ち込みの鞄一つを持って搭乗した。
そして、あくまで一時的であるはずの計画も一つ。
機体が北へ進路を取ると、カリフォルニアは雲の下へ消えた。
数時間後。
フェアバンクスでは、ギャリック・スローンが彼を待っているはずだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
本作は、作者本人が海外の小説投稿サイトで発表しているオリジナル作品の日本語版です。
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――東川鬼面斎




