第三章 すべて合法だった
弁護士は、取締役会が間違っているとは言わなかった。
それが最初の悪い兆候だった。
小さな会議室で、彼女はオールデンの向かいに座っていた。
二人のあいだには、離職に関する書類一式が開かれている。
オールデンの手元にはリーガルパッドが一冊。
十分も経たないうちに、半ページほどが矢印と割合と書類名で埋まっていた。
彼はペン先で紙を叩いた。
「つまり、株はまだ俺が持っている」
「はい」
「取締役の席も、当面は残る」
「はい」
「会社を創業したのも俺だ」
「はい」
「なのに、そのどれにも採決を止める力はなかった」
「そのとおりです」
オールデンは椅子の背にもたれた。
「ひどく馬鹿げた文章だな」
「ですが、正確です」
弁護士が書類を彼のほうへ向け直した。
見覚えのある署名が並んでいる。
自分の署名だった。
最初の外部資金調達で会社は変わった。
二度目の調達でも変わった。
新しい資金。
新しい権利。
新しい取締役席。
何ひとつ、隠されてはいなかった。
そのときどきで、どの契約も会社が実際に抱えていた問題を解決するために必要だった。
オールデンは、一つひとつの契約については理解していた。
ただ、それらを全部足し合わせたことがなかった。
その中心に、自分自身を置いたまま。
創業者という肩書きは、歴史だった。
所有は、経済の話だった。
支配は、権利の話だった。
三つは同じものではない。
オールデンは書類を閉じた。
「手続き上、何か不適切なことは?」
「私が見る限り、ありません」
「契約違反は?」
「ありません」
「投票権のない人間が票を投じたとか」
「ありません」
「じゃあ、全部合法だった」
「はい」
彼女の声に、勝ち誇った響きはなかった。
オールデンは、むしろ少しくらいあってほしかったと思った。
違法な採決なら争える。
偽造された署名なら暴ける。
陰謀なら、少なくとも殴るべき敵がいる。
だが、そこにある署名は自分のものだった。
弁護士が別の書類を差し出した。
「こちらは、引き継ぎ、アクセス権、守秘義務、それから業務執行上の経営から離れることに伴う条件です。署名する前に、会社とは独立した弁護士に確認してもらうことを勧めます」
「今日は署名しない」
「私も、それを勧めます」
その答えは意外だった。
「あなたは会社側の弁護士だろ」
「はい」
「そのあなたが、俺に自分の弁護士を雇えと言ってる」
「はい」
オールデンは書類をまとめた。
ドアに手をかけたところで、彼女が呼び止める。
「ヴォスさん」
振り返った。
「会社を創業することと、その会社を支配することは、別の問題です」
「そこはもう理解した」
「でしょうね」
たぶん本当にそう思っている。
それが妙に腹立たしかった。
エレベーターに着く前に、スマートフォンが震えた。
EVERETT CHEN
エヴァレット・チェン。
オールデンは表示された名前を見つめた。
ヴェイラが人生のすべてを食い尽くす前から付き合いのある、古い友人だった。
扱うのはハードウェアと物流。
そして、たいていは「誰かが今すぐ手放したがっている」というところから始まる類の商売話。
ここ数か月、連絡は取っていない。
通話に出た。
「何だ」
エヴァレットが笑った。
「失業すると礼儀がよくなるって聞いてたけど、逆だったか」
オールデンは足を止めた。
「どうして知ってる?」
「知り合いが多いんでね」
「噂好きの知り合いだろ」
「それも知り合いだ」
オールデンはエレベーターのボタンを押した。
「慰めの電話なら切るぞ」
「違う」
「ならいい」
「ちょっと変なことを聞きたくてな」
エレベーターが着いた。
オールデンは一人で乗り込む。
「その前置きは、たいてい高くつく」
「今回は安くつくかもしれない」
扉が閉じていく。
エヴァレットは続けた。
「中国のビットコイン採掘、追ってるか?」
「いや」
「少しも?」
「少しも」
「わかった。短く言う。採掘業者が閉鎖したり移転したりしてる。中古市場に機械が流れ込んでる。大量にだ」
オールデンは階数表示を見上げた。
「俺はビットコインを掘ってない」
「知ってる」
「じゃあ、なぜ俺に電話する?」
「問題は機械じゃないからだ」
エレベーターが一階に着く。
オールデンはロビーへ出た。
エヴァレットが言う。
「電気だよ」
足がわずかに遅くなる。
「電気がどうした」
「機械は安くなってる。でも電気は安くならない。安いマシンだって、高い電気につないだら高いマシンのままだ」
「それは誰か別の人間の問題だな」
「たぶんな」
オールデンはガラス扉を押し開け、午後の光の中へ出た。
エヴァレットは一拍、黙った。
「お前の家、アラスカにまだあの工場を持ってるか?」
オールデンは立ち止まった。
「ヴォス・アークティック?」
「ああ」
「あれは暖房設備の工場だぞ」
「何の工場かは知ってる」
「なら、なぜ聞く?」
「産業用の電力契約だ」
オールデンは振り返り、たった今、自分が支配を失った建物を見上げた。
「それが?」
「まだ残ってるか?」
「知らない」
「そこで育ったんだろ」
「そこを出てもいる」
「それはそうだ」
オールデンは脇に抱えた書類を持ち直した。
「たぶん、売ることになる」
エヴァレットが黙った。
それから言った。
「売る前に、電気代だけ調べろ」
オールデンは眉をひそめた。
「なぜ?」
「今、採掘機を“こんな値段では絶対売らない”と思ってた連中が、その値段で売り始めてるからだ」
「何台?」
「大量」
「それは数字じゃない」
「お前のところの電気が話になるかどうかもわからないうちは、それが数字だ」
オールデンは不本意ながら、少し笑いかけた。
「相変わらず、先に売ってから説明するんだな」
「そっちも相変わらずだ。簡単な質問に答える前に、完璧な情報を欲しがる」
笑みが消えた。
エヴァレットは、オールデンをよく知りすぎている。
駐車場へ目を向ける。
「俺はビットコイン鉱山なんて始めないぞ」
「始めろとは言ってない」
「ならいい」
「俺が聞いたのは、お前が電気にいくら払ってるかだ」
「知らない」
「じゃあ調べろ」
オールデンは時刻を確認した。
「ほかに片づけることがある」
「聞いてる」
エヴァレットの声が、ほんの少しだけ変わった。
同情ではない。
むしろ、余計なことを言わないために抑えているような声音だった。
「わかったら電話しろ」
通話が切れた。
オールデンはしばらく、ビルの外に立っていた。
ビットコイン採掘。
安くなった機械。
産業用電力。
こういう話は、誰かがすでに儲けたあとで初めて耳に入るものだ。
そんな気がした。
スマートフォンをポケットに戻す。
夕方になるころには、オールデンの執務室はもう彼の部屋には見えなくなっていた。
IT部門に完全に締め出されたわけではない。
引き継ぎ期間中は限定的なアクセス権が残る契約になっていた。
だが、管理者権限はすでに別の人間へ移り始めている。
オールデンはモニター上の社内ダッシュボードが更新されるのを見つめた。
緑。
システムは動いている。
別リージョンでデプロイが完了する。
キューが一つ解消される。
顧客のトラフィックが、彼自身も設計に関わったアーキテクチャを流れていく。
画面のどこにも、創業者がたった今“いなくてもいい存在”になったことなど表示されていなかった。
オールデンは私物のキーボードを外した。
ドアのところにサイラスが現れた。
「手伝おうか?」
「いらない」
「備品室に箱がある」
「一つ見つけた」
サイラスは机の上の段ボール箱を見た。
入っているものは驚くほど少ない。
マグカップ。
ノート二冊。
予備の眼鏡。
メカニカルキーボードのケーブル。
それから、会社最初のオフィスで撮った小さな写真立て。
サイラスが写真を指した。
「あそこ、カーペット敷きだったの忘れてた」
「違う。あれはカビだ」
「カーペットだった」
「動いてたぞ」
サイラスが思わず笑った。
オールデンは笑わなかった。
サイラスの笑みも消えた。
彼は部屋の中へ入る。
「……悪かった」
「お前は賛成票を入れた」
「わかってる」
「その二つは相殺されない」
「相殺されるとは思ってない」
オールデンは箱の蓋を折り込んだ。
だがキーボードが入らず、また開ける。
サイラスは、彼が中身を詰め直すのを見ていた。
「裏切られたと思ってるだろ」
「俺より先に知ってたとは思ってる」
「それは事実だ」
「取締役会が正しかったとも思ってる」
サイラスは少し考えてから答えた。
「会社は、お前にもっと早く変わってほしかったんだと思う。お前自身が変わる速さよりも」
オールデンは彼を見る。
「もし変わってたら?」
「わからない」
それは、サイラスが今日初めて口にした、用意されていない答えだった。
オールデンはキーボードを斜めに押し込んだ。
「言えただろ」
「ああ」
「なぜ言わなかった?」
「お前なら、全員が“何が問題なのか”を最後まで言い終える前に、それを“解決できる問題”に変えてしまうと思ったからだ」
オールデンは黙って彼を見た。
サイラスが息を吐く。
「それと――俺が臆病だったからだ」
その答えを出されると、怒る余地が思ったより少なくなる。
それがまた腹立たしかった。
オールデンは箱を持ち上げた。
サイラスが道をあける。
廊下では、二人のエンジニアがホワイトボードの前で話していた。
一人はオールデンを見るなり、言葉の途中で黙った。
もう一人は、開いてもいないノートパソコンへ視線を落とした。
オールデンはそのまま歩いた。
エレベーターの前で、またスマートフォンが震える。
GARRICK SLOANE
ギャリック・スローン。
オールデンは一秒、名前を見つめた。
ギャリックから電話が来ることなど、ほとんどない。
通話に出る。
「ギャリック?」
「オールデン」
背後では、オフィスがいつもどおりの音量で仕事を続けていた。
オールデンは段ボール箱を腰に当て直した。
「何があった?」
ギャリックは前置きをしなかった。
「お前の母さんに、人手が要る」
お読みいただき、ありがとうございます。
本作は、作者本人が海外の小説投稿サイトで発表しているオリジナル作品の日本語版です。
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――東川鬼面斎




