第二章 採決
オールデンがアラスカへ戻ったのは、母に人手が必要だったからだ。
そして工場は、もうひとつの厄介事として彼を待っていた。
父が亡くなってから、ヴォス・アークティックは縮小を続けていた。
ギャリックを除けば従業員はほとんど残っていない。
製造事業はすでに消え、いま辛うじて続いているのは修理仕事だけだ。
それでも会社を生かし続けることを、オールデンはもう「父への義理」とは思えなかった。
ただ決断を先延ばしにしているだけだ。
だから、レノラが回復するまでのあいだに、残っているものをすべて洗い出す。
価値のあるものは売る。
母が抱える「失敗し続ける事業」を、一つ減らしてやる。
それが責任ある判断だと、オールデンは考えていた。
三日前。
彼自身についても、取締役会はよく似た結論を出していた。
その朝、オールデンは「処理能力」の話で揉めるつもりで会議室に入った。
背後のスクリーンには、十一週間かけてエンジニアリング部門がまとめた資料が映っていた。
顧客数の伸び。
インフラ負荷。
そして年末までにエンタープライズ向けの処理能力を倍増させるための費用。
四枚目のスライドに入ったところで、取締役の一人が遮った。
「事業計画には目を通しました」
オールデンはクリック式のリモコンを握ったまま答えた。
「なら、営業目標に届くより先にキャパシティの限界が来ることもわかっていますね」
「承知しています」
「それなら話は早い。需要を先回りして増強するか、それとも二四半期のあいだ、サーバーが魔法で生えてくるふりをするかです」
誰も笑わなかった。
オールデンはテーブルを見回した。
右へ三席。
サイラス・ヴェイルが、ノートパソコンを閉じて座っていた。
サイラスが取締役会でパソコンを閉じているとき。
それはたいてい、会議の結末をもう知っているときだった。
オールデンはリモコンをテーブルに置いた。
「本当の議題は何です?」
筆頭取締役が両手を組んだ。
「経営です」
オールデンは黙って待つ。
「正確には、会社が次の段階へ進むための経営体制についてです」
「次の段階に必要なのはキャパシティです」
「別の経営体制も必要です」
来た。
オールデンはサイラスを見る。
「いつから知ってた?」
サイラスは、意味がわからないふりをしなかった。
「数日前から」
「俺に電話しなかった」
「しようとは思った」
「聞いたのはそこじゃない」
「……ああ。しなかった」
オールデンは取締役たちへ向き直った。
「COOを置きたいんですか?」
「違います」
「俺の上にCEOを?」
筆頭取締役が一瞬、間を置いた。
「あなたには、日常の経営から退いてもらうことを提案しています」
オールデンは椅子を引き、座った。
六年前。
会社にあったのは折り畳み式のテーブルが二つと、借り物のクラウドクレジット、それから同時に五十人を超えると壊れる試作品だけだった。
最初の本番用アーキテクチャを書いたのは自分だ。
最初のエンジニアを面接したのも自分だ。
最初の大口顧客の移行作業では、帰宅する四十分すら惜しくて机の下で眠った。
いま取締役会は、そんな自分を効率の悪い部品のように論じている。
「理由は?」
別の取締役が答えた。
「会社はもう、エンジニアリングだけの問題ではないからです」
「便利な言い方ですね」
「侮辱しているわけではありません」
「かなり吟味した言い回しに聞こえますけど」
「オールデン。あなたが優れた技術組織を築いたことは誰も否定していない。しかし営業が契約をまとめかけた段階で、その約束に異議を唱える。報酬レンジに納得できないという理由で採用を遅らせる。説明するより自分で直したほうが早いからと、管理職を飛び越える。先月は、経営陣が承認したあとでインフラのロードマップの一部を書き換えた」
「承認されたロードマップでは失敗していました」
「そうだったのかもしれません」
「そうだったんです」
取締役は頷いた。
「その返し方自体が、問題の一部です」
オールデンはノートパソコンを開いた。
「問題が実績なら、実績で話しましょう」
「問題は実績だけではありません」
「売上は伸びている。エンタープライズ顧客の継続率も上がっている。一顧客あたりのインフラコストは下がった。新しいアーキテクチャなら、エンジニア数を倍にせずスケールできる。エンジニアリング部門の離職率も去年より低い」
数字に異論を挟む者はいなかった。
オールデンは画面を彼らへ向ける。
「では、創業者を経営から外したほうが会社にとってプラスだと示す変数は、どれです?」
筆頭取締役は、スプレッドシートをほとんど見なかった。
「まさに、そういうところです」
オールデンは相手を見つめた。
「取締役会にデータを持ってきたから、俺を外すと?」
「違います。数値に落とし込めない問題があると、あなたは“定義が甘いだけだ”と考える傾向がある、と言っているんです」
反論はすぐに出た。
だが、オールデンは口を閉じた。
取締役は続ける。
「管理職からは、一度決まったはずの判断があとからひっくり返されるという声が出ています。営業からは、技術側の異議が出るのが遅すぎると。人はあなたに答えを求めます。あなたなら必ず答えを出すからです。そしてやがて、“きれいな答えのない問題”を、あなたのところへ持ってこなくなる」
「答えが間違ってるなら、検証すればいい」
そのとき初めて、サイラスが口を開いた。
「そこなんだ」
オールデンは彼を見る。
サイラスはパソコンも、目の前のフォルダーも開かなかった。
「お前は、ずっと“正しいこと”を最適化してる」
「間違いは、だいたい高くつく」
「そうだ。でも全員が、お前が正解にたどり着くまで待たされるのも高くつく」
オールデンの顎に力が入った。
サイラスは続ける。
「データベース移行のとき、お前は正しかった。エンタープライズ・アーキテクチャでも正しかった。前回のリリースを延期した判断も正しかった」
「じゃあ、何を議論してる?」
「システムについて正しいからといって、その周りにあるすべての判断までお前が握るべきなのか、って話だ」
会議室が静まり返った。
オールデンはサイラスから他の取締役へ視線を移した。
「それはお前の意見か。それとも、こいつらの?」
「俺の意見だ」
「少なくとも効率的だな」
サイラスは、その皮肉を受け止めた。
オールデンはスプレッドシートを閉じた。
筆頭取締役が一式の書類をテーブルの上で滑らせる。
「この場で法的条件に返答していただく必要はありません。保有株式、取締役としての地位、移行に伴う義務、それから離職条件については、顧問弁護士から説明します」
オールデンは書類に触れなかった。
「離職」
「業務執行上の経営から、です」
「柔らかい名詞にしたな」
「ここにいる誰も、あなたを辱めようとはしていません」
侮辱されるより、その言葉のほうが腹が立った。
侮辱なら、敵を作れた。
オールデンは立ち上がり、窓際まで歩いた。
眼下の駐車場はほぼ埋まっている。
その向こうに低層のオフィス棟が並び、ガラスとコンクリートの間で、若い木々が支柱に縛られて立っていた。
六年前。
成功とは、給料日を越えられることだった。
次は顧客数。
次は従業員数。
次は企業価値。
数字は、全部上がった。
そしてオールデンは、数字と一緒に自分の支配力も上がっていくものだと思っていた。
背後で筆頭取締役が言った。
「十分ほど休憩を――」
「いりません」
オールデンはテーブルへ戻る。
「今日、採決するんでしょう。なら、やってください」
サイラスがようやくノートパソコンを開いた。
「先に弁護士の説明を聞くべきだ」
「聞けば票が変わるのか?」
サイラスは答えなかった。
「なら、採決しろ」
筆頭取締役がテーブルを見回した。
その朝初めて、誰も先へ進みたがっていないように見えた。
オールデンは笑いそうになった。
会社秘書役が正式な決議案を読み上げる。
経営執行体制に関する動議。
賛成者あり。
採決が始まった。
最初の取締役。
賛成。
二人目。
賛成。
オールデンは無意識に数え始めた。
取締役の席数。
可決に必要な票数。
残りの票。
ひとつの部品が落ちても、全体が穏やかに動き続ける。
そんなシステムを、彼は何年もかけて設計してきた。
そこに座ったまま、ふと気づいた。
この取締役会も、同じように設計されていたのだ。
自分がいなくても動くように。
また賛成。
反対が一票。
そして、もう一つ賛成。
サイラスの名が呼ばれる前に、オールデンにはわかっていた。
どの一票で、残りの票が意味を失うのか。
会社秘書役が彼を見る。
「ヴェイルさん?」
サイラスはオールデンの目を見た。
数秒間。
どちらも動かなかった。
やがてサイラスが言った。
「賛成です」
秘書役が票を記録する。
残る名前も順に呼ばれた。
すべてが終わると、筆頭取締役が告げた。
「動議は可決されました」
オールデンは壁に映ったままのプレゼンテーションを見る。
スライド四。
十一週間分の仕事。
次に作るはずだったシステム。
会社は、おそらくそれを作るだろう。
ただし。
もう自分は、その会社を動かしていない。
筆頭取締役が法務書類を、もう少し彼の側へ滑らせた。
オールデンはようやく手に取った。
表紙には自分の名前が印刷されている。
MANAGEMENT TRANSITION AND SEPARATION ARRANGEMENT
経営移管および離職に関する合意書。
取締役たちを見た。
次に、サイラスを見る。
「俺が、この会社を作ったんだ」
誰も否定しなかった。
それこそが問題だった。
それでも、採決は通った。
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本作は、作者本人が海外の小説投稿サイトで発表しているオリジナル作品の日本語版です。
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――東川鬼面斎




