↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アラスカでビットコインを掘ることになった  作者: 東川鬼面斎 - Easton Ghostmask


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/70

第一章 北へ

飛行機が降下を始めたころ、オールデン・ヴォスの視界に、ふたたびアラスカが現れた。


翼の下には、深く長い谷が幾筋も口を開けていた。黒々としたトウヒの森、白く光る川、日陰にだけしぶとく残った古い雪。

一本の道路が川沿いに姿を見せ、翼の陰に消え、何マイルも先でまた現れる。その間に建物らしいものは、ほとんどなかった。


オールデンは長いあいだ、人に「アラスカ出身だ」と話してきた。


そして、それ以上に長いあいだ、ここで暮らさずに済む人生を選び続けてきた。


シートベルト着用のチャイムが鳴った。


癖でスマートフォンのロックを外す。

圏外だった。


もっとも、どうでもよかった。

読みたくないものは、もう端末の中に落ちている。


BOARD OF DIRECTORS — OPERATING REVIEW

取締役会――事業運営レビュー。


予定表には、まだその会議が残っていた。


その下にはPDFもある。


MANAGEMENT TRANSITION AND SEPARATION ARRANGEMENT

経営移管および離職に関する合意書。


どちらも削除していない。


オールデンはしばらくその文字を見つめ、それから画面を消した。


三日前まで、自分は会社を動かしていた。

折り畳み式のテーブルを二つ並べ、借り物のクラウドクレジットで立ち上げた会社だった。


今、手元にあるのはスーツケースひとつと機内持ち込みの鞄ひとつ。

それに、「数か月だけ」と何度も自分に言い聞かせているアラスカでの時間。


着陸装置が降りる音がした。


採決のあと、初めて怒りとは別の感情が胸に浮かんだ。


安堵だった。


そのことが、腹立たしかった。


フェアバンクスの手荷物受取所に着くころには、その感情も消えていた。


出口近くで、ギャリック・スローンが待っていた。


作業用のジャケットは、オールデンの元部下の何人かより年季が入って見える。

記憶より肩幅が広くなり、顎髭には白いものが増えていた。

迎えの札など持っていない。


ギャリックはオールデンのスーツケースを見た。


「それだけか?」


「数か月だからな」


オールデンが止める間もなく、ギャリックは大きいほうの鞄を持ち上げた。


「お前はまだ、かかる時間が最初からわかってるみたいな言い方をするんだな」


オールデンは彼を見る。


ギャリックは出口へ歩き出した。


「よし。その顔も変わってない」


外に出ると、冷気が一気に頬を刺した。

オールデンはほんの半歩、動きを止める。


ギャリックは見逃さなかった。


「六月だぞ」


「何月かくらい知ってる」


「ならいい」


車は古いディーゼルのピックアップだった。

ダッシュボードには亀裂が入り、フロントガラスだけは妙にきれいで、座席の後ろには本気の修理ができそうな工具がぎっしり詰まっている。


ギャリックはスーツケースを荷台に放り込み、運転席に乗った。


オールデンもシートベルトを締める。


「母さんは?」


「機嫌が悪い」


「それは病名じゃない」


「レノラの場合、放っておくと病名になりかねん」


オールデンは黙って続きを待った。


ギャリックがエンジンをかける。


「動き回ってる。動きすぎだ。医者に止められてるのに、見てる人間がいなきゃ指示は提案に格下げされると思ってる」


「つまり、いつもどおりか」


「脚以外はな」


冗談はそこで終わった。


オールデンはフロントガラスの向こうを見る。


「本人は大丈夫だって言ってた」


「大丈夫ではある」


「その二つ、普通は同じ意味じゃないだろ」


「ああ」


ギャリックは駐車場を出た。


しばらく北へ走り、それから人通りの多い道を外れていく。

フェアバンクスの街並みが背後へ薄れていった。


建物は敷地になり、敷地は森になり、家と家の距離がだんだん長くなる。


見覚えのある場所が、断片的に現れた。


ガソリンスタンドは名前が変わっていた。

資材置き場は倍ほどに広がっている。

道沿いの建物が一軒、跡形もなく消えていた。


山だけは昔と同じ場所にあった。


なぜか、そのことが細かな変化を余計に腹立たしく見せた。


ギャリックは両手をハンドルに置いたまま言った。


「お前の母さんから、仕事で揉めたって聞いた」


オールデンは道路を見たまま答える。


「そう言ったのか?」


「『カリフォルニアのことは聞くな』と言われた」


「だから聞いてるわけか」


「仕事のことを聞いてる」


オールデンは危うく笑いそうになった。


「取締役会が経営体制を変えた」


「つまり?」


「つまり、もう俺は会社を動かしてない」


ギャリックが一度だけ横目を向ける。


「お前の会社だろ?」


「どうやら、思ってたより複雑な文章らしい」


ギャリックは、軸受けが壊れたとでも聞いたように頷いた。


「盗られたのか?」


「いや」


「騙された?」


「いや」


「法律を破った?」


「それもない」


「じゃあ、高い授業料だったな」


「高かった」


ギャリックはそれ以上、何も言わなかった。


それは昔から変わらない。

ギャリックは沈黙を、無理に埋めようとしない男だった。


道はモロウ・クリークの谷へ入るにつれ細くなった。

道路脇にはトウヒが迫り、側溝を雪解け水が走っている。

木々の向こうでは、ときおり小川が銀色に光った。


この道を、オールデンは知っている。


十七歳のころ、大学へ行くまであと何か月かを数えながら走った。


二十二歳のときは、卒業しても戻るつもりはないと父に説明しながら走った。


二十六歳。

オーソンの葬儀のあとにも通った。

一週間も経たないうちに、ここを出た。


オールデンは座席でわずかに姿勢を変えた。


「工場は、どれくらいひどい?」


ギャリックは、どの工場のことか聞き返さなかった。


「何をもって“ひどい”とするかによる」


「売上」


「ひどい」


「受注は?」


「ほとんど修理だ」


「従業員は?」


ギャリックが彼を見る。


オールデンは言い直した。


「お前以外で」


「呼べば来る連中を数えるか?」


「数えない」


「なら一人だ」


オールデンは鼻から息を吐いた。


「設備は?」


「使えるのもある。くたびれたのもある。何年も前に捨てるべきだったのもある」


「建物は?」


「まだ立ってる」


「土地は?」


「それも、まだある」


「土地はなくならないだろ」


「アラスカじゃ、そう言い切らんほうがいい」


オールデンはまた窓の外へ目をやった。


レンタカーを借りず、ギャリックに迎えを頼んだのはこのためだった。


父オーソンのもとで長く働いてきた彼なら、何が残り、何が壊れ、何なら売れるのかを知っている。


やるべきことは明確だった。


レノラが普通に動けるようになるまで手を貸す。


工場を整理する。


値のつくものは売る。


数字が合うなら土地も売る。


そして、カリフォルニアへ戻る。


数か月。


何度も繰り返すうちに、それは予定ではなく事実のように聞こえ始めていた。


ギャリックが州道を曲がる。


舗装路は、色の違う補修跡だらけの古い産業道路に変わった。

風雨にさらされた標識が見える前から、オールデンには曲がり角がわかった。


MORROW CREEK INDUSTRIAL ROAD

モロウ・クリーク工業道路。


肩に力が入る。


ギャリックも気づいたようだったが、今度は何も言わなかった。


やがて木々が途切れ、谷底に古いヴォス家の敷地が現れた。


記憶の中では、もっと大きかった。


実際には、そうでもない。


母屋ならぬ主工場は、色褪せた金属板の長い建物だった。

屋根は二種類の色で継ぎはぎされ、搬入口の扉には錆が浮いている。

小さな倉庫は、実際には傾いていないのだろうが、見た目には傾いて見えた。


金網の向こうには古い設備が転がっている。

ヒーターの筐体、配管材、トレーラーのフレーム、鋼鉄製のラック。


道路沿いの看板には、今もこう書かれていた。


VOSS ARCTIC

HEAT & EQUIPMENT


ヴォス・アークティック

暖房・設備


看板の隅は枠から剥がれかけている。


オールデンはそれを見つめた。


子どものころ、冬になるとあの門の外にはトラックが列を作っていた。

溶接工たちは夜遅くまで働き、事務所の電話は鳴り続けていた。


父が家へ戻ると、服から軽油と鉄と冷気の匂いがした。


今では、閉業することすら途中で忘れてしまった会社のようだった。


ギャリックは速度を落としたが、敷地には入らなかった。


「寄るか?」


「今日はいい」


「お前の母さんも、そう言うって言ってた」


「じゃあ、なんで聞いた?」


「礼儀だ」


門を通り過ぎるとき、オールデンの目に敷地端の電力設備が入った。


古い電柱。

太い導線。

もう一枚のフェンスに囲まれた産業用の開閉設備。


眉をひそめる。


「電気、まだ生きてるのか?」


「一部はな」


「なぜ?」


ギャリックは前を向いたまま答えた。


「お前の親父は、一度払ったものに二度払うのが大嫌いだった」


オールデンは振り返って電気設備を見た。

だが意味を尋ねる前に、木々が視界を遮った。


それでも彼は身体をひねり、工場がトウヒの向こうへ完全に消えるまで見ていた。


胸に来るのは、もっと別のものだと思っていた。


悲しみとか。


懐かしさとか。


けれど実際には、頭の中でもう仕分けが始まっていた。


建物。


土地。


在庫。


スクラップ。


工具。


車両。


売れるもの。


撤去費のほうが高くつくもの。


そのほうが楽だった。


ギャリックが指先でハンドルを叩いた。


「お前の親父は、あまり物を捨てなかった」


「覚えてる」


「だからって、全部が役立たずって意味じゃない」


「そんなこと言ってない」


「言うところだった」


オールデンは彼を見る。


ギャリックの目は道路から動かなかった。


「それも変わってないな」


「何が?」


「扉を開ける前に、値段を決めるところだ」


オールデンは振り返った。

もう工場は見えない。


「俺は母さんを手伝いに来た。それが済んだら、あそこを片づける」


「そうか」


「買い手がいるなら土地ごと売る」


「そうか」


「いなければ設備を処分して、残ってる事業を閉じる。土地は別に考える」


ギャリックは頷いた。


反対しない。

オーソンの思い出を持ち出して説教もしない。

あとで後悔するぞ、と脅しもしない。


抵抗されるより、そのほうが落ち着かなかった。


「それでいいのか?」


ギャリックがようやく横を向いた。


「俺のものじゃない」


単純すぎる答えだった。

それで会話は終わった。


オールデンは正面を向く。


数マイル先。

次の曲がり角の向こうに、モロウ・クリークが待っている。


母の家。

自分の会社の評価額など誰も気にしていなかったころの自分を知る人々。

そして、かつて逃げ出すべきものだと決めつけていた生活。


背後には、死にかけた工場。


オールデンは、それを金に換えるつもりだった。


スマートフォンを開き、新しいメモを作る。


VOSS ARCTIC — DISPOSAL

ヴォス・アークティック――処分計画。


最初の一行を打ち込んだ。


全在庫を確認。


そこで指が止まった。


あの建物の中に入るのは、何年ぶりだろう。


そもそも、自分は何が残っているのか知らない。

お読みいただき、ありがとうございます。


本作は、作者本人が海外の小説投稿サイトで発表しているオリジナル作品の日本語版です。


続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。


――東川鬼面斎

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。