第98話 知恵の結晶
同じ頃、あのフリーランス記者は、見知らぬ人物から、接触を受けていた。
「少し、お話が」
喫茶店の隅で、その男は、名刺も出さず、静かに切り出した。訛りの薄い日本語だったが、生粋の日本人ではないと、記者は直感していた。
「ある高校生について、継続的に情報を集めてほしい。報酬は、悪くない条件を用意する」
「……どこの、方ですか」
「そこは、聞かない方がいい」
記者は、しばらく、相手の顔を見つめていた。
この仕事を長くやってきて、危ない橋だという自覚は、もちろんあった。それでも、愛国心などというものは、記者の中に、最初から存在していなかった。金になるかどうか、それだけが、判断の基準だった。
「分かりました。集めた情報は、どこに送ればいいですか」
「賢明な判断だ」
男は、薄く笑うと、連絡先だけを書いた紙切れを、テーブルに滑らせた。
記者は、それを、無造作にポケットへしまい込んだ。
―――
地球側では、大塚が、次の作業に取り掛かっていた。
「電波は繋がった。けど、これだけじゃ、まだ半分死んでるようなもんだな」
大塚は、モニターの前で、独り言のように呟いた。
「向こうには、GoogleもAppleも、サーバーそのものが存在しない。心臓部となる『知識の置き場』が、まず必要になる」
大塚は、部屋の隅に置いてあった、本命の機材へと向かった。
足の先で、コンテナ型ローカルサーバーの電源ボタンを、ぽちっと押す。お偉いさんに見つかったら、間違いなく怒られそうな態度だった。
内部のファンが、静かに回り始める。無数のLEDライトが、チカチカと明滅した。
「この中には、発つ前に支援者たちが詰め込んでくれた、膨大なスタンドアロンデータが入ってる。ネットに繋がってなくても、単体で動く知恵の集積、ってわけだ」
このサーバーは、テラ・マートを通じて、異世界側——緒方の屋敷へと、物理的に送られることになっていた。
―――
数日後、異世界の緒方の屋敷に、そのコンテナ型サーバーが届いた。
大塚の動画で使い方を学んだ緒方は、スマートフォンを操作し、屋敷内のローカルネットワーク経由で、サーバーへとアクセスした。
「見てください、これ。これが、俺たちの世界の、知恵の結晶です」
緒方は、隣に立つ侯爵に、画面を見せた。
表示されたのは、ネットが無くても動く、オフライン版の百科事典。医療・農業マニュアル。そして、今回の本命である、オフライン・マッピングアプリだった。
まだ画面の地図は真っ白だったが、中央には、静かに明滅する、青い光の点が浮かび上がっていた。
侯爵が、その画面を、じっと覗き込む。
「緒方、この青い光は……まさか、我々の位置か?」
「そうです。さっき屋敷に建てた基地局の電波を、スマホが計算して、自分が今どこにいるかを、正確に当てています」
緒方は、丁寧に説明を続けた。
「今はまだ、真っ白なノートのような状態ですが、ここに、この世界の地形を、少しずつ書き込んでいくことができます」
「……我々の技術には、無いものだな」
侯爵は、感嘆したように呟いた。
「これを、王国内、どこまで広げられる」
「基地局の数を増やせば、その分、範囲は広がります。ただ——」
緒方は、一つ、区切ってから続けた。
「王都全体、あるいは、それ以上の範囲となると、私一人の予算や人手では、正直、厳しいです」
「なるほど。つまり——」
「はい」
緒方は、まっすぐに、侯爵の目を見た。
「熱電発電のジェネレーターと、メッシュWi-Fiルーターの設置に、お力添えをいただけないでしょうか。あわせて、業務に使う端末も、必要な人数分、揃えたいと考えています」
侯爵は、しばらく、考え込むようにしていたが、やがて、小さく頷いた。
「面白い話だ。予算は、こちらで手当てしよう。まずは、城と、主要な街道沿いから始めるか」
「ありがとうございます」
緒方は、深く頭を下げた。王国内の通信網という、これまでにない構想が、少しずつ、現実のものになろうとしていた。
―――
屋敷に戻った緒方は、新しく届いた端末を、ロイド、ミラ、ノルド、フィアに、一台ずつ配った。
「これから、業務の連絡は、この端末を使う」
「私にも、こんな立派なものを……」
ミラが、恐る恐る、端末を受け取る。
「使い方は、追々、覚えていけばいい」
ノルドは、すでに、画面を興味深そうに操作し始めていた。
「これなら、書類のやり取りも、記録が残せそうですね」
「フィアは、これまで通り、現場を回る方が向いてる。端末は、緊急の連絡用に使ってくれ」
「分かりました!」
フィアが、明るく頷く。
地球から運び込まれた技術が、少しずつ、この世界の中に、根を張り始めていた。まだ、地球と直接繋がる術はない。それでも、異世界の中で完結する、新しい仕組みが、確かに動き出していた。




