第9話 九十年ぶりの記録
道場に入ると、いつもより張った空気が漂っていた。
「今日は、学年内の順位決めだ」
顧問の声に、一年生の間でざわめきが起きる。仕組みは知っている。これを知らなければ、そもそも同学年で八番目という順位にはなっていない。普段の基礎練習を省き、軽く体を動かしただけで、いつもより早く勝ち抜き戦に入る。下位から順に上がっていき、最後まで勝ち残った者が学年トップになる。三本勝負、先に二本取った方が勝ちという、いつも通りのルールだった。
審判は持ち回りで、三年の上位が務める。公式戦並みの緊張感を、わざと一年に経験させるための仕組みなのだろう。
拓也の順位は、当然のように最下位からだった。半年も休んでいたのだから、文句を言える立場ではない。むしろ、これは都合がいい。一番下から積み上げていけば、力の調整を一試合ずつ確かめながら進められる。
「中野、最下位スタートな。気にすんな、休んでたんだし」
審判を務める三年の先輩が、苦笑しながらそう言った。気を遣われていることが分かる。
最初の相手は、自分よりわずかに下に位置していた一年だった。竹刀を構え、互いに礼をする。三割。胸の中で、その数字をもう一度確かめた。
「始め!」
主審の声と同時に、相手が前に出てくる。だが、その動きが拓也にはやけにゆっくり見えた。竹刀の軌道がわずかにブレているのも、踏み込みの予備動作も、隙が生まれるタイミングも、全部が手に取るように分かる。
「メーーーッ!」
丹田から声を引き出し、踏み込む。喉を絞り出すような掛け声と同時に、竹刀の先が相手の面を捉える。
「面!」
主審の声が響き、一本が決まる。
二本目も、同じだった。「メーーーッ!」と咆哮しながら踏み込み、相手が反応する前に面を取る。
「面!」
「勝負あり!」
声が上がり、一試合目はそのまま終わった。
次の相手も、似たような結果だった。間合いに入った瞬間に踏み込み、面を一本。三割の力で打っているはずなのに、相手はまったく反応できていない。これが、半年前の自分が見ていたはずの実力差なのか、それとも今の自分が異常なのか、考える余裕もなく試合は進んでいく。
ギャラリーの声が、少しずつ大きくなっているのが聞こえた。
「あれ、八番だよな」
「半年休んでて、あの動きか……」
「このまま一年が勝ち進んだら、九十年ぶりの記録に並ぶぞ」
誰かがそう言うのが聞こえた。記録の中身までは分からなかったが、それだけで周囲の空気が一段と張り詰めるのが分かった。
声は気にしないようにした。今は、力の加減に意識を向ける方が大事だった。
勝ち上がるたびに、相手の実力が上がっていく。それでも、拓也の動きは変わらなかった。三割で十分に間に合う。むしろ、その余裕の分だけ、相手の動きを観察する時間が増えていくくらいだった。
二年生の中堅クラスまで進んだ頃、拓也は一瞬、竹刀を構えたまま動きを止めた。
——今日は、このくらいで勘弁してやろう。
なんて、調子に乗った王様みたいな台詞が頭に浮かんで、自分で少し笑いそうになる。だが、笑っていられるのも今のうちだった。
これ以上勝ち進めば、目立ちすぎる。半年の不在から戻ってきたばかりの人間が、いきなり学年の頂点まで駆け上がるのは、さすがに不自然すぎる。今はまだ、その注目を引き受ける準備ができていない。
とはいえ、わざと無様に負けるつもりもなかった。決定的な一本を与えず、自分も決定的な一本を取らない。そのまま膠着させて、時間切れに持ち込むのが一番自然なやり方だった。
相手の二年が踏み込んでくる。拓也はあえて深く踏み込まず、相手の竹刀の届かない位置で受けに回った。何度か攻め合いが続いたが、どちらの竹刀も、決定的な一本にはならない位置で空を切る。そんな展開を、拓也は意図的に作り続けた。
「時間です」
計時係の声が響く。
「やめ!」
主審の声で、双方の竹刀が下がる。
「引き分け!」
その宣言で、試合が締められる。
結果として、その一戦が拓也にとっての最後の試合になった。勝ち抜き戦の規定上、引き分けで終えた者は、そのまま順位が確定する。集計の結果、拓也の順位は学年トップだった。
道場のあちこちから、ざわめきが上がる。
「マジか、八番が一位かよ」
「半年のブランクで、これって……」
ざわめきの中心にいながら、拓也はそれをやり過ごすように、ゆっくりと竹刀を納めた。汗は程よくかいていたが、息はほとんど乱れていない。胸の中の高揚と、表に出さない平静さの差が、自分でも少し奇妙に感じられた。
顧問が一言だけ、拓也の方を見て頷いた。それ以上、何も言わなかった。
道場を出る前に、拓也は一度だけ自分の手を見た。三割という数字の中に、まだ自分でも測りきれていない余白がある気がした。




