第8話 三割の境界線
学校が休みの日、拓也は矢板の実家に戻っていた。小山の寮からはそれなりの距離があるが、休みを使えば帰れないこともない。誰もいない裏庭で、拓也はもう一つの検証をしていた。
拳大の石を一つ拾い、軽く握ってみる。三割の力。普段抑えている、その程度の強さで握ると、石はただの石のままだった。
次に、五割まで上げてみる。石の表面に、薄く罫が入った。
最後に、力を全く抑えずに握ってみる。石が音もなく崩れ、砂のような欠片が手のひらからこぼれていった。
拓也はしばらく、手のひらに残った砂粒を見つめていた。
——これが、今の自分の力なのか。
道場での素振りは、三割でちょうど良い加減だった。だが、もし試合で誰かと打ち合うことになったら、その三割が本当に安全な数字なのか、まだ確かめていない。
次の検証は、もう少し慎重に行う必要があった。竹刀を一本持ち出し、庭の隅に立てた古い角材に向かって、五割の力で振ってみる。
乾いた音が響き、角材が真っ二つに折れた。竹刀の方は、ひびすら入っていない。
拓也は息を呑んだ。これが角材ではなく、人の腕や体だったら——。
受ける側に回るなら、まだ救いがある。普通なら、木刀で打たれた腕は簡単に骨折する。だが今、実際に確かめてみると、自分の体は木刀で打たれてもせいぜい痣で済む程度の強さになっていた。半年の間に、防御の方も知らないうちに化け物並みになっていたということだ。
だが、自分が攻める側に回り、五割の力で踏み込んだら。竹刀の先が、防具の隙間をすり抜けて当たったら。相手は、自分と同じ強さを持っているわけじゃない。
ひゃー、これじゃヤバくね。
頭の中で、思わずそんな声が漏れた。剣道部の仲間の誰かが、自分の竹刀で本当に死んでしまう未来が、急にはっきりと像を結んだ。考えるだけで、背筋が冷えた。
三割。今後も、その数字を絶対に超えないようにしなければならない。これは単なる加減の問題ではなく、誰かの命に関わる線だった。
実家にいるうちに、もう一つ確かめておきたいことがあった。拓也は裏庭を出て、姉の高校の方へ向かった。歩きながら、もう一度あの男の気配を探ってみる。
あの手の男は、一度脅されたくらいで簡単には懲りない。むしろ時間が経つほど、あの恐怖を自分の中で都合よく塗り替えていく。あれはただの不運な一瞬だった、次は油断していないから大丈夫だ、と。暴力で誰かを従わせてきた人間ほど、一度の屈服をそのまま受け入れることができない。意地か、面子か、それともただの鈍さか。理由はどれでもよかった。とにかく、もう一度同じ場所に戻ってくるだろうという読みは、拓也の中で確信に近いものになっていた。
予想は当たっていた。男はまだ姉の高校の周辺にいた。一度は退いたはずなのに、しつこく未練を残していたらしい。路地の隅から、こちらの様子を窺っているような視線を感じる。
拓也はゆっくりと、男の方に歩いていった。
「またですか」
男の顔が、見るからに青ざめる。
「て、てめえ……」
言葉とは裏腹に、足が一歩、後ろに引かれていた。拓也はその場にあった拳大の石を一つ拾い、男の目の前に掲げてみせる。
ぎゅっと握る。
石が、ぱきぱきと音を立てて崩れ、粉になって地面に落ちていく。
男の顔から、完全に色が抜けた。
「次は、お前の手首」
そう言って、拓也は男の手首を掴んだ。逃げようとする動きを、軽く押さえるだけで止める。男は何とか抜け出そうともがいたが、まったく動けなかった。
「す、すみません、すみません……」
涙声に変わるまで、そう長くはかからなかった。男は半泣きでその場に座り込み、何度も詫びの言葉を繰り返した。
拓也は手を離し、淡々と続けた。
「良い子にしていないと、また会いに行くから」
それから、男の自宅の住所を、淀みなく言い当てた。実際には知らなかったが、男の反応を見れば、おおよその当たりがついた。男の顔が、さらに青くなる。
「家にも行くから。それだけ、覚えておいて」
男はもう何も言えず、ただ何度も頭を下げ続けた。拓也はそれを見届け、何事もなかったような顔で、その場を離れた。
同じ頃、藪田は署の応接室で、冷や汗をかいていた。
目の前のソファに座る男は、年齢こそ自分とそう変わらないが、纏う空気がまるで違う。物腰は静かで、丁寧な言葉を使うが、その奥に何か、見えない圧力のようなものがある。
名刺を受け取った瞬間、藪田は一瞬、息を止めた。
肩書きの欄に並ぶ文字を見て、頭の中で警報が鳴った。中央のしかるべき機関に所属する、それも上層に近い肩書きだった。本来であれば、こうした立場の人間が地方の署を訪れる際には、署長が筆頭に立ち、出迎えと見送りを欠かさないのが通例だ。だが今回、男は連絡を一切入れず、ふらりと一人で現れていた。お忍びという言葉が、藪田の頭をちらりと過る。
「中野拓也君の件で、少し伺いたいことがあります」
男は穏やかにそう切り出した。藪田はすぐには答えられなかった。捜査資料の中身を、どこまで漏らしていいのか、判断がつかない。
「……失礼ですが、こちらの件にどういった関わりが」
「ある少年と、行動を共にしていた者の身内です」
それ以上、男は詳しくは語らなかった。だが名前を見た瞬間、藪田はもう一つのことに気づいていた。行方不明になった一年の中に、確かに同じ姓を持つ少年がいたはずだ。あの、ずっと連絡が取れていない家庭の子の。
「捜査の進展について、差し支えない範囲で教えていただけますか」
藪田は言葉を選びながら、所持品の鑑定結果や、捜査が停滞している現状を、できるだけ慎重に説明した。男はそれを黙って聞き、最後にだけ、小さく頷いた。
「ありがとうございます。また、何かあれば」
それだけ言って、男は静かに席を立った。見送りに出ようとした藪田を、男は軽く手で制した。
「結構です。誰にも気づかれないように来ましたので」
その一言の意味を、藪田はしばらく考え込んでいた。
名刺をもう一度、机の上に置く。あの少年の所持品の矛盾、行方不明の半年、そして今、目の前に現れたこの肩書き。
全部が、どこかで繋がっている気がした。だが、その繋がりの正体が何なのか、藪田にはまだ、見当もつかなかった。




