第7話 漏らした男
学校に戻る前日の夜、拓也はもう一度キッチンに立った。
冷蔵庫を覗いてみても、これといった材料はない。半年前の自分なら、ここでインスタントラーメンの袋を取り出して終わっていたはずだ。湯を沸かして、粉末スープを入れて、麺を茹でる。それで十分だと思っていた。
今はそれが、妙に味気なく見える。
ありもの野菜を適当に刻んで、出汁を取り、味を見ながら整える。火加減を見るたびに、野営での感覚が手を貸してくれる。出来上がった汁物を小鍋ごと持っていくと、母がまた驚いた顔をした。
「また作ったの? 今度は何?」
「ありもので適当に。味、見てくれる?」
母が一口飲んで、目を見開く。
「……これ、お店で出てくる味じゃない」
大袈裟な言い方だったが、悪い気はしなかった。父も無言で椀を空にした。必要なことだけを口にして、後は黙って認める。やっぱり、その癖は自分の中にもしっかり根を張っているらしい。
夕食を終えた後、拓也は自分の部屋でしばらく考え込んでいた。
明日から学校に戻る。寮生活も、剣道部の練習も、また始まる。そうなれば、姉のことに構う時間は、今よりずっと減ってしまうだろう。
——今、決めておかないと駄目だ。
考える前に、結論はすでに固まっていた。あの男のことは、自分が片付ける。表立って騒ぎを起こすつもりはない。だが、姉が一人で怖がりながら通学路を歩く必要は、もうない。
翌朝、拓也は普段より少し早く家を出た。姉の高校の方向へ歩きながら、意識を少しだけ広げてみる。仲間の状態を読み取るためのスキルが、今は人混みの中から、あの男特有の気配を拾い上げようとしている。苛立ちと余裕が入り混じった、独特の歪み方。これまでなら気づけなかった感覚の差が、今は驚くほど明確に分かった。
予想通り、男は校門からそう遠くない路地で、煙草を吸いながら誰かを待っていた。
「——お前、何だよ」
拓也が近づくと、男はあからさまに不機嫌そうな顔を見せた。値踏みするような目で、拓也の体格を確かめている。
「ちょっと話があって」
「は? 知らねえし」
男が一歩詰めてくる。腕を伸ばし、肩を押そうとした、その動きが、拓也にはやけにゆっくり見えた。
避けるのも、止めるのも、どちらも簡単すぎて拍子抜けするくらいだった。手首を軽く摘んで、ほんの少しだけ力を込める。男の顔から、一瞬で余裕が消えた。
「な、何だこれ……」
「静香に会うの、今日でやめてもらえます?」
声は努めて静かに保った。だが、握った力加減までは、完全には制御できなかったらしい。男の体がガタガタと震え始め、顔から血の気が引いていく。やがて、ズボンの裾からじわりと色が変わり、足元に水溜まりができていった。
拓也はすぐに手を離した。
「……すみません。手、ちょっと力入っちゃって」
男は何も言えず、ただ後ずさりした。その後ろ姿が見えなくなるまで、拓也はその場を動かなかった。脅すつもりはなかった、はずなのだが、結果としては十分に脅しになっていたかもしれない。
ともかく、これでもう、姉が一人で怖がる必要はなくなったはずだ。
寮の入り口で、管理人のおばさんに声をかけられた。
「あら、拓也くん。やっと戻ってきたのね」
「ご迷惑かけました。お世話になります」
「無理しないでね。何かあったら、すぐ言うのよ」
それだけのやり取りだったが、おばさんの顔には本物の安堵が浮かんでいた。短い会話を終えて、拓也は寮の廊下を進んだ。
廊下にはまだ見慣れた喧騒があった。
「おい、戻ったのか!」
同室の同期が、寝具を抱えたまま声を上げた。何人かが集まってきて、口々に「大丈夫だったのか」「どこ行ってたんだよ」と聞いてくる。拓也は「色々あって」とだけ答え、それ以上は誰も深く突っ込まなかった。半年も部活を離れていた人間に、根掘り葉掘り聞くほどの余裕は、ここの誰にもない。
ただ、寮の中の空気は、以前と少し違っていた。一年の上位二人と、女子の上位一人、それにマネージャーの一人——拓也と一緒に消えたあの四人が、いまだに戻っていないことが、寮全体にどこか落ち着かない影を落としている。彼らの部屋の前を通るたび、誰も何も言わないまま、視線だけが一瞬そこに向く。拓也だけが先に戻ってきたことに対する微妙な空気は、家族の訪問の時とはまた違う形で、寮の中にも確かに存在していた。
職員室に顔を出すと、担任は安堵したような顔で、退院の経緯と今後の学業の調整についてだけ簡単に確認した。
「無理せず、少しずつ戻していけばいい」
その一言で、面談はあっさり終わった。
教室に入ると、クラスの数人がちらちらとこちらを見ていたが、声をかけてくる者は少なかった。剣道部の連中は、というだけで一歩引かれる空気があるのは、半年前と変わっていない。むしろ、行方不明から戻ってきたという話題が加わったことで、その距離はさらに開いたようにも見えた。
昼休み、道場に顔を出すと、二年の先輩たちが集まってきた。
「お前、本当に大丈夫なのか。無理してないか」
心配する声に混じって、「八番、戻ってきたか」といういつもの呼び方も飛んでくる。揶揄いの響きの中に、確かな安堵が混ざっているのが分かった。
竹刀を握り、構える。
今の力の、三割。そう決めていたはずの加減を、拓也は静かに体に当てはめていく。これから、ここで何度も繰り返していくことになる調整だった。




