第10話 賢者の母親、再訪
学年順位決め戦の話は、思った以上に早く広まっていた。
道場の中だけならまだよかったが、数日のうちに、保護者会の繋がりを通じて、外にまで漏れ出しているらしい。半年休んでいた一年が学年トップに立った——それだけの事実が、伝言ゲームのように形を変えながら広がっていくのを、拓也は実感し始めていた。
まあ、誰かに刺されたわけでもないし、これくらいは。
そんな楽観が頭の片隅にあったのは、放課後、担任に呼び出されるまでのことだった。
「中野、ちょっと来てくれ。来客だ」
担任の声には、いつもの軽さがなかった。連れていかれたのは、来客対応用の小さな応接室だった。ドアを開けた瞬間、拓也は誰が来ているのかをすぐに理解した。
賢者の母親。
前回——半年前、自宅の玄関先で声を震わせて詰め寄ってきた、あの人だった。
だが、今日の様子は違う。声を荒げる気配はなく、ソファに浅く腰掛けたまま、じっと拓也の方を見ている。観察するような、値踏みするような目だった。
隣には、見たことのない男が座っていた。四十代くらい、グレーのスーツ、表情はほとんど動かない。名刺を差し出しながら、
「お忙しいところ、申し訳ありません。親族の者で、法律関係の仕事をしております」
と短く名乗った。それだけだった。深く自己紹介する気もないらしい。
弁護士、というやつか。
ダンジョンで竜の咆哮を間近で受けたことのある身としては、正直、スーツの圧のかけ方は可愛いものだった。それでも、隣で一礼だけして黙り込んでいる担任の顔色を見れば、これがそれなりに効いているのは分かる。
「お久しぶりです」
賢者の母親が、静かに口を開いた。前回とは違う、抑えた声だった。
「週刊誌の記者の方から、少し妙な話を聞いたんです。それだけなら気にしないつもりでしたけど、学校の先生から聞いた話と繋がって、どうしても気になってしまって」
拓也は先を促すように、黙って頷いた。
「順位決め戦のこと、聞きました。半年も休んでいたのに、学年トップだったとか」
「……はい」
「半年、まったく剣道をしていなかった人が、それだけの結果を出せるものなんでしょうか?」
——いや、半年やってなかったんじゃなくて、その前の十年近くは普通にやってたんですけどね。
心の中でそう突っ込みながら、拓也はちょっとした感心もしていた。なるほど、伝わっている話はその程度か。半年のブランクの部分だけが切り取られて、肝心の積み重ねの方は、誰の口にも乗っていないらしい。
案外、いい加減な噂で収まっているなら、こっちとしては助かる。
声には出さず、表情だけは変えないように努めた。
声に怒りはなかった。ただ、確かめるような、静かな圧だけがあった。
拓也は何も答えられなかった。答えを持っていないわけではない。むしろ持っているからこそ、今度も言えなかった。
「……分かりません。気づいたら、こうなっていて」
「気づいたら、ですか」
賢者の母親の口の端が、わずかに歪んだ。笑ったのか、それとも別の感情だったのか、判断がつかなかった。
「前にお伺いした時は、取り乱してしまって。あれは反省しているんです」
その一言は、思いがけない方向から来た。前回の激高を、自分でも気まずく思っているらしい。だが続く言葉は、すぐに元の温度に戻っていく。
「ただ、私は今でも、あなたが何か知っていると思っています。うちの子は、私が大事に育ててきた子です。それが半年も行方不明で、しかも、あなただけが、こんなふうに——」
言葉を切って、母親は一度、隣の男に目をやった。男はそれに応じて、初めて長めに口を開いた。
「捜査の状況や、こちらで分かっている事実について、今後、正式な開示を求める可能性があります。その点だけ、お伝えしておきたく」
脅すような響きはなかった。ただ、淡々とした事実の提示として、それだけが置かれた。
——開示請求、ね。
拓也は内心で苦笑した。仮にどこかへ正式に請求したところで、出てくるのはせいぜい「行方不明者特別捜査・進展なし」の一文くらいだろう。異世界でダンジョンに落ちて、魔物と戦って、聖女を助けて——なんて記録は、どこの役所にも存在しない。法律がどれだけ立派でも、扱う対象がこの世界に無いのなら、仕方がない。
なんだか申し訳ない気持ちが少しだけ湧いたが、それも口には出さなかった。
部屋の空気が、少しだけ重くなる。
まあ、これくらいなら。
拓也は内心でそう呟いた。ダンジョンで魔物に囲まれた時の方が、よっぽど命の危険があった。今は、せいぜい言葉の圧だけだ。それに比べれば、正直なところ大したことはない——そう思おうとする一方で、隣に座る担任の、ひどく緊張した横顔を見ると、これが自分一人の問題では済まないことも、同時に分かっていた。
「……すみません。今は、それしか言えません」
拓也がそう答えると、賢者の母親はしばらく黙っていた。やがて小さく息を吐き、
「分かりました。今日は、これで」
と言って、立ち上がった。男も一礼だけして、後に続く。
部屋を出る間際、賢者の母親は一度だけ振り返った。
「……あの子が、無事だといいんです。本当に」
それだけ言って、ドアの向こうに消えていった。
担任が深く息を吐く音が、やけに大きく聞こえた。
「中野、大丈夫か?」
「大丈夫です。すみません、ご迷惑かけて」
「いや……お前のせいじゃない」
担任はそう言ったが、その声にも、どこか釈然としない響きが残っていた。
応接室を出て、寮への道を歩きながら、拓也はぼんやりと考えていた。
前回は、怒りがそのまま剥き身で飛んできた。今回は、それが形を変えて、もっと冷たく、もっと狙いを絞って飛んできた気がする。
それでも——なんだ、意外と平気だったな。
そんな楽観が、すぐに顔を出す。半年の異世界生活で、命の危機にはもう慣れてしまったのかもしれない。スーツの男も、賢者の母親の視線も、振り返ってみれば大した威圧ではなかった。
ただ、最後の一言だけが、妙に頭に残っていた。
——あの子が、無事だといいんです。
怒りだけだった人の口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。あの人の中で、何かが少しずつ、形を変え続けているのかもしれない。
拓也は、寮の入り口で一度足を止め、夕暮れの空を見上げた。
次にあの人が来る時、自分はまだ、同じ言葉しか返せないのだろうか。そんなことを考えながら、拓也はゆっくりと寮の中に入っていった。




