第88話 実在した天才
七月、玉竜旗の季節がやってきた。
明郅館高等学校剣道部、三年生は拓也のみ。残りは、二年生を中心とした構成だった。
顧問の先生にとって、玉竜旗は、特別な大会だった。全国制覇——その夢は、これまで、何度も手の届きそうなところまで近づいては、すり抜けていった。
もし、あの代に、神崎、結城、東條が、揃って残っていたら——先生は、ふと、そんな「もしも」を思うことがあった。良い選手が集まるかどうかは、そもそも運も絡む話だ。だが、今回ばかりは、ただの運の悪さでは片付けられない、特殊な事情がそこにはあった。
「今年は、今年で、やれるだけのことをやろう」
先生は、それだけ、自分に言い聞かせるように呟いた。
―――
大会は、女子の部から始まった。
一年生ながら選抜メンバーに名を連ねた東條葵は、誰もが予想しなかった健闘を見せた。
準々決勝、準決勝と勝ち上がり、チームは全国三位という結果を残す。葵自身の戦いぶりも際立っており、優秀選手賞の対象として、その名が挙がっているという噂が、関係者の間で囁かれていた。
「やっぱり、東條の血なんだろうな」
先生は、結果を聞いて、思わず、そう呟いた。剣道一家として知られたあの家系の血が、また一人、形になって現れたのかもしれない。
―――
男子の部、一日目。
拓也の出番は、なかった。
二年生たちが、それぞれの持ち味を発揮し、危なげなく初戦・二回戦を勝ち上がっていった。三年生がほとんどいない代であることを感じさせない、堅実な戦いぶりだった。
二日目。ここで、ようやく拓也の初戦が回ってきた。
「中野、頼むぞ」
「はい」
拓也は、短く頷いて、竹刀を握り直した。
二回戦の相手は、それなりの実力者だったが、拓也は危なげなく一本を決め、勝ち上がった。続く試合も、同様に、堅実に勝利を重ねていく。
二日目が終わる頃には、チームは、確かな手応えと共に、三日目——決勝トーナメントへと駒を進めていた。
―――
三日目。準々決勝。
全国レベルの猛者を相手に、二年生たちは、序盤から苦しい展開を強いられた。先鋒、次鋒と、力及ばず連敗する。中堅、副将も、何とか食らいつくが、一本を奪うには至らない。
大将戦——拓也の出番が回ってきた。
「ここまでの分、全部、持ってこい」
先生の一言に、拓也は、ただ頷いた。
竹刀を強く握り直し、前へ進み出る。これまで、ずっと加減し続けてきた力を、今、ようやく出し切る場所が来た。
一本、また一本。拓也は、相手チームの五人を、立て続けに下していった。
「五人抜き!」
道場が、どよめきに包まれる。
準々決勝、突破。
―――
準決勝も、同じような展開だった。
二年生たちが、全力で食らいつくが、相手の壁は厚く、先鋒から副将まで、一本も奪えないまま、大将戦に縺れ込む。
拓也は、再び、五人を、一人で抜き去った。
「またか……!」
観客席から、どよめきとも歓声ともつかない声が上がる。
決勝。
相手も、ここまで勝ち上がってきた、紛れもない強豪だった。だが、結果は、同じだった。
拓也は、三度目の五人抜きを成し遂げ、明郅館高等学校剣道部を、玉竜旗、優勝へと導いた。
「やった……!」
二年生たちが、その場に崩れ落ちるようにして、喜びを爆発させた。
―――
表彰式の後、先生は、大会関係者たちに、すっかり取り囲まれていた。
「噂話だと思っていたが、本当に実在していたとはな」
「病弱の天才剣士、と聞いていたが——どこが病弱なんだ、あれは」
「うちの大学に、ぜひ。話だけでも、聞いてもらえないか」
矢継ぎ早に投げかけられる言葉に、先生は、半分苦笑いしながら、丁寧に対応を続けていた。
「申し訳ないが、あれはもう、進路が決まっていてね」
その一言に、何人かが、目に見えて落胆した。
控室に戻った先生は、二年生たちを集めて、声をかけた。
「お前ら、今日の経験、絶対に忘れるなよ。来年、お前らが中心になる時、今日見たものが、必ず財産になる」
「はい!」
部員たちの声が、揃った。
拓也は、その輪の少し外側で、防具を片付けながら、自分に向けられた言葉の数々を、どこか他人事のように聞いていた。これだけの結果を出しても、自分の進む道は、もう決まっている。それでも、今日という日は、確かに、悪くない一日だった。




