第87話 名誉男爵
数日後、クロエ、ガルム、シルヴィアの三人が、それとなく王都を訪れた。
「お前らの暮らしぶり、ちょっと見てみたくてな」
クロエは、軽い調子でそう言ったが、その目は、結城たちの拠点を、注意深く観察していた。
緒方の店の様子、ロイドやノルドたちとの何気ないやり取り、結城たちが当たり前のように受けている信頼——それらを目にするうち、クロエの表情に、わずかな揺らぎが浮かんだ。
「……ずいぶん、ちゃんとした暮らしをしてるんだな」
「色々、運も良かった」
結城は、それだけ答えた。
クロエは、それ以上、深くは聞かなかった。だが、自分たちが歩いてきた道のりとの落差を、内心で測っているのは、隣にいたガルムにも分かった。
―――
その日の夕方、皆川と東條が、シルヴィアを誘って、近くの茶屋に立ち寄った。
「シルヴィアさんも、こっち、座ってください」
皆川が、気負わない調子で、隣の席を勧める。
「あ、はい……」
シルヴィアは、戸惑いながらも、腰を下ろした。
「最近、髪、伸びましたよね。手入れ、どうしてるんですか」
「これは、その……正直、あまり構ってる余裕がなくて」
「分かります。私も、こっちに来てから、ずっとそうでした」
皆川が、軽く笑う。
「ねえ、最近、ろくに眠れてないでしょ」
東條が、不意に、シルヴィアの顔を覗き込んだ。
「……分かりますか」
「分かるよ。私もそうだったから」
他愛もない世間話と、ふとした気遣い——それが、シルヴィアにとって、思いがけない安らぎになっていた。気づけば、こんな風に、誰かと肩の力を抜いて話す時間が、随分なかったことに気づく。
「……ありがとうございます」
シルヴィアは、それだけ言って、小さく微笑んだ。
―――
城の一室で、緒方は、伯爵に、以前から頼んでいた件を尋ねていた。
「ガラニア国の、勇者パーティーの追跡状況は、その後、何か」
「ああ、その件か」
伯爵は、書類を一枚、手元に引き寄せた。
「向こうの国、今、それどころじゃないらしい」
「それどころじゃない、というのは」
「内戦だ。王位を巡って、国が二つに割れかけてる、という話だ。逃げた勇者パーティーを追う余裕なんて、もう、向こうにはないだろう」
「……そうですか」
緒方は、内心、少しだけ安堵した。
「もっとも——」
伯爵は、書類を片付けながら、ふと付け加えた。
「勇者召喚というのは、元々、ただで済む話じゃない。何かを得れば、どこかで、その分の負債を負う。国の混乱も、案外、その負債の一つなのかもしれんな」
緒方は、その言葉に、何かを聞き返そうとしたが、伯爵は、それ以上は語らなかった。
「今日は、ここまでにしておこう。それより——お前に、伝えておきたいことがある」
「何でしょうか」
伯爵の表情が、わずかに改まった。
―――
「国王陛下が、譲位を決められた」
その一言に、緒方は、思わず身を引き締めた。
「次の国主は、第二王女、リーゼル様だ。公爵家のアルベルト殿との婚姻も、正式に発表される」
「王女様が、即位、ですか」
「ああ。アルベルト殿を王配に迎えての、共同統治という形になる」
数日後、王城の広間で、正式な発表が行われた。
「我は、ここに、王位をリーゼルに譲る」
老いた国王の声が、広間に響いた。
「リーゼルは、アルベルトと共に、この国を導いていくであろう」
集まった貴族たちの間に、どよめきが広がる。長く揺れ続けてきた継承問題が、ようやく、一つの形に落ち着いた瞬間だった。
―――
即位の発表からほどなく、論功行賞が行われた。
「オーレス伯爵——いや、これからは、オーレス侯爵だな」
国王(前)の言葉に、伯爵——もとい侯爵は、丁寧に頭を下げた。
「身に余る光栄です」
その場には、緒方の名も呼ばれた。
「テラ・マートの緒方。これまでの働きを認め、名誉男爵の位を授ける」
「……名誉、男爵」
緒方は、思わず、聞き返しそうになった。
後で侯爵から聞いた説明によれば、一代限りの名誉職で、領地はなく、爵位による特権もほとんどない。だが、納税の義務だけは、これまで通り、しっかりと課されるという。
「肩書きだけ、立派になったわけだな」
侯爵が、軽く笑いながら言った。
「日常は、何も変わりません、か」
「そういうことだ。せいぜい、名乗る時に、少しだけ箔がつく程度だな」
緒方は、苦笑しながら、与えられた肩書きの重さと、これまでと変わらない暮らしとの落差を、改めて噛み締めていた。
―――
地球側では、七月の玉竜旗が、もう一か月を切っていた。
「先輩、聞きました? 一年の東條、選抜メンバーに入ったらしいですよ」
後輩の一人が、練習の合間に、そう声をかけてきた。
「東條……葵か」
「はい。一年からなんて、すごいですよね」
拓也は、小さく頷いた。剣道一家として知られるあの家なら、不思議はないのかもしれない。それでも、一年生での選抜入りは、簡単な話ではなかった。
「先輩は、相変わらず、続けるんですか」
「インターハイの権利、まだ使ってないからな。それに——」
拓也は、少しだけ、言葉を切った。
「就職、もう決まってるんだ。だから、最後まで、ちゃんとやり切りたい」
仲間内では、ほとんど語られてこなかった事実だった。進学とは違う道を、拓也はすでに選んでいた。
「そうなんですね」
後輩は、それ以上、深くは聞かなかった。次の大会に向けて、それぞれが、自分の役割に向き合うだけだった。




