第76話 前提条件
使いが店に来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「伯爵様が、お呼びです」
緒方は、心得たように頷き、店を一人の見張りに任せて、城の奥へと足を進めた。何度か通された道のりは、もう迷うほどのものではなくなっている。
通された部屋で、オーレス伯爵は、いつもと変わらない落ち着いた様子で待っていた。
「来たか」
「お待たせしました」
緒方は、一礼してから、椅子に腰を下ろした。今日、ここに来た用件は、これまでとは少し違う重さを持っていた。
「今日は、こちらから、お話ししたいことがあります」
「ほう。お前の方からとは、珍しい」
伯爵は、わずかに目を細めた。
緒方は、一度、息を整えてから、口を開いた。
「これまで、はっきりとは伝えていませんでしたが——私には、もう一つの祖国があります。地球という、別の世界です。日本という国から、私はここに来ました」
伯爵の表情に、大きな変化はなかった。それでも、わずかに、視線の質が変わったのが分かった。
「テラ・マートの商材は、すべて、そこから流通しています。私個人の手柄ではなく、向こうの国家——政府が、関わっている話です」
「……国家、というのは」
「はい。私の動きは、すでに、日本政府に把握されています。そして——その政府には、この国と、正式に交渉する意思があります」
伯爵は、しばらく黙っていた。
「その国は、この王国よりも、大きいのか」
「比べるのも難しいくらいです。人口も、技術も——正直に言えば、向こうの国家が本気で動けば、この国一つを揺るがすことくらい、難しくはないと思います」
緒方は、そこまで言ってから、わずかに迷った。これ以上は、踏み込みすぎかもしれない。それでも、ここで言葉を濁せば、信頼そのものが崩れる気がした。
「ただ、向こうにも、戦をする気はありません。求めているのは、交渉です」
「正式な交渉、か」
伯爵は、それだけ呟くと、目を閉じた。考えを整理しているような時間だった。
「で、その交渉には、何が要る」
「協力の前提条件があります」
緒方は、用意していた言葉を、ゆっくりと並べた。
「一つは、勇者たちの保護と、本人たちの意思の尊重です。これまでのように、駒として扱うことは、認められません」
「もう一つは」
「勇者たちが、元の世界に帰還することが可能なのかどうか——その調査です。可能であれば、いずれ、帰す方向で動いていただきたい」
伯爵は、わずかに片眉を上げた。
「帰す、か。それは、この国にとって——」
「分かっています。簡単な話ではないことは」
緒方は、伯爵の言葉を遮るように続けた。
「ですが、それが、向こうの国家が求める、最低限の条件です。これを抜きにして、正式な交渉の席には着けません」
しばらくの間、伯爵は何も言わなかった。
「お前のことは、もう疑っていない」
ようやく、伯爵が口を開いた。
「ヴァルドからも、そう聞いている。あれは、なかなか厳しい目を持った男だ。あれが認めた人間を、私が今さら疑う理由はない」
「……それは、光栄です」
緒方は、内心で、少しだけ肩の力を抜いた。
「条件については、預かろう。すぐに答えは出せないが、無下にはしない」
「ありがとうございます」
「だが——」
伯爵は、そこで、わずかに声を低くした。
「お前の国の事情も、教えてくれ。何を望み、何を恐れているのか。それが分からなければ、こちらも、本当の意味で動けない」
緒方は、その問いに、すぐには答えなかった。これは、最初の一歩に過ぎない——そのことを、改めて思い知らされる一言だった。
―――
会談を終えた緒方は、城下の通りを歩きながら、これからのことを考えていた。
日本政府との正式な交渉が動き出せば、伝える情報、確認する事項、整える書類——仕事の量は、今までの比ではなくなる。
——以前頼んだ、あの二人の話も、そろそろだろうか。
そんなことを考えながら店に戻ると、すでに使いの者が一人、戸口で待っていた。
「奴隷商からのお遣いです。ご希望に近い者が、二人見つかったとのことで」
「分かった。すぐに向かう」
緒方は、支度もそこそこに、奴隷商の店へ足を運んだ。
「いらっしゃいませ。——お待ちしておりました、緒方様」
店主が、すぐに気づいた様子で、丁寧に頭を下げた。
「待たせたな。それで——どんな二人だ」
「読み書きと計算、両方こなせる者を、ということでしたので。少々お時間をいただきましたが、良い人材が見つかりました」
しばらくして、連れてこられたのは、二人だった。
「ノルドと申します」
三十代半ばに見える男が、短く名乗った。物静かな口調の中に、こちらを値踏みするような視線が混じっていた。元は商家の帳簿係で、主人の不正の連座で、ここに来たという。
「フィアです。よろしくお願いします」
もう一人は、十代の終わりに見える女だった。教会で育ち、読み書きはそこで習ったという。物怖じしない明るさが、口調にも表情にも出ていた。
「読み書きと計算、どちらも問題ありません」
「字を書くのは得意です。あと、伝言とか、お使いとか、人と話すのも、結構好きです」
対照的な二人だった。緒方は、その対照こそが、今欲しいものだと感じた。
「二人とも、頼む」
手続きは、思ったより早く済んだ。
―――
家に戻った緒方は、ロイドとミラに、二人を引き合わせた。
「ノルドさんと、フィアさんだ。これから、一緒に働いてもらう」
「よろしくお願いします」
ロイドが、まず頭を下げる。ミラも、その後ろから、小さく頭を下げた。
「色々と、教えてください」
フィアが、すぐにミラの方へ近寄り、笑いかけた。ミラは、最初こそ戸惑った様子を見せたが、その明るさに、すぐ警戒を解いていった。
ノルドは、少し離れたところで、その様子を黙って見ていた。何かを観察するような視線は、店で見た時と変わらなかった。
——まあ、これも、慣れていくだろう。
緒方は、増えていく顔ぶれを見ながら、小さく息を吐いた。仕事は、これから、もっと増える。それでも、増えた分だけ、頼れる手も増えていく——そう思うことにした。
窓の外は、すでに夕暮れに近づいていた。今日一日で、伝えなければならないこと、増やさなければならない手——両方が、一度に動き始めた。
緒方は、賑やかになった家の中を見渡しながら、まだ自分でも整理し切れていない一日の重さを、改めて感じていた。




