第50話 利権の天秤
オーレス伯爵は、王直属の家臣として、表向きは中立を保っている。
だが、そんな建前など知らぬ顔で、各派閥からの誘いは、絶えず舞い込んでくる。今日も、皇太子派の使者が、それらしい用件を装って、屋敷の門を叩いていった。断ったところで、次の使者が来るだけだということは、もう何年も前から分かっていた。
ブレずに中立を保つには、力が必要だった。
力のない中立は、ただの優柔不断と変わらない。両派閥から、いいように利用される的になるだけだ。これまで何人もの貴族が、その立場のまま、静かに、あるいは劇的に、家を潰されていくのを見てきた。
伯爵は、自らの子飼いの男爵たちに、絶えず目を配り続けている。ヴァルド男爵も、その一人だった。一人一人の足元を固めることが、結局は、自分自身の立場を固めることに繋がる。
報告によれば、男爵の紙の原料を失わせた、あの山火事——あれは、単なる災害ではなく、放火だという。
——第三王子派の馬鹿が、動いたか。
ヴァルド男爵という駒を、利権そのものを断つことで、こちら側から引き離す。直接、刃を向けるよりも、確実で、後腐れのない手段だった。利権を失った貴族は、いずれ立場を失い、立場を失った貴族は、いずれ寝返る。それが、この城の中での、ごく当たり前の力学だった。
だが、今回は、例の者——緒方が、紙の調達に協力したことで、男爵が利権を失うことはなかった。
偶然、なのか。
それとも、何かの計算があったのか。
皇太子派の方は、勇者パーティーを切り札に、何を仕掛けてくるのか、まだ見えていない。あちらの手の内が分からないまま、こちらだけが手札を切り続けるのは、危険だった。
——今は、例の緒方が、我らに有利に動いてくれた、ということか。
伯爵は、しばらく、考えを巡らせていた。
あの男には、勇者のような力はないと聞く。それでいて、貴族の事情に首を突っ込まず、それでも貴族の側から、自然と頼られる立場を作っている。怪しい、と言ってしまえば、それだけのことだ。だが、怪しいだけの男に、これだけの「結果」を出せるとは思えなかった。
「少し、話を聞くか」
その一言で、決定は下された。
「ヴァルド男爵に、伝言を」
使いの者は、すぐに動き出した。
―――
午後、いつもの時刻に、ヴァルド男爵が店に顔を出した。
「男爵様、紙はまだですが?」
緒方は、いつもの調子で、用意していた紙束に手をかけた。
「別件だ。着いて参れ」
ヴァルド男爵は、それだけ言うと、踵を返した。その声には、いつもの軽さがなかった。
緒方は、戸惑いながらも、その後についていく。これまで足を踏み入れたことのない、王城の奥——明かりの数が、急に減っていく。石壁に挟まれた、薄暗い通路を、二人は、無言で進んでいった。
すれ違う者は、誰もいなかった。靴音だけが、やけに大きく響く。
——呼び出される理由は、いくつか思いつく。どれも、当たってほしくないものばかりだった。
やがて、案内されたのは、簡素な、それでいて妙に居心地の悪い一室だった。装飾はほとんどない。だが、部屋の主が誰であるかは、入った瞬間に分かるだけの、重みがあった。
「オーレス伯爵、連れて参りました」
ヴァルド男爵が、そう告げる。
伯爵は、まず、自分の立ち位置を、簡潔に伝えた。王家の血を引く家系であること、皇太子派・第三王子派の双方から、引き込みの誘いを受けていること——緒方がこれまで噂程度にしか知らなかった事情が、本人の口から、改めて語られていく。
言葉を交わすたびに、緒方の中で、一つの確信が固まっていった。この人物は、自分を試すために呼んだのではない。すでに、必要な値踏みは終えている。
「この城に、何年も居れば常識だ。何も、秘密を打ち明けたわけではない。ただ——今、権力争いが激化して、動きが荒くなっている。お前が知る頃には、もう終わっているかもしれんがな」
「……味方になれ、という事ですね」
「そう願いたい」
緒方は、一度、視線を落とした。
断る、という選択肢を、頭の中で素早く検討する。だが、ここまで踏み込んで呼び出された以上、断ることそのものが、すでに一つの答えとして扱われるだろう。
「私は、勇者のような力は有りません。弱者です。御味方していることが分かれば——男爵様のような災難には、対応できません」
「身辺の警護は、何とかする」
オーレス伯爵は、表情を変えずに、続けた。
「緒方よ、そちは、珍しい物を、何処から仕入れるのだ。それは——テラ・マートのスキルから、手に入れるのだろう」
緒方の背筋に、冷たいものが走った。
平静を装っていたつもりの仮面が、一瞬、崩れかけた。誰にも気づかれていないはずだった出自の手段を、目の前の男は、すでに見抜いている。
「大丈夫だ。皇太子も、第三王子も、誰も、お主のことは気にしていない。しかし——気づいた時には、もう遅い、という具合に、計画を進めたい」
「……そこまで、調べていたのですか」
緒方は、努めて、表情を変えなかった。声の震えだけは、何とか抑え込む。
「何が、必要ですか。私には、この国の貴族が欲するものが、分かりません」
「それは、この国の貴族には、それぞれ、地域に特化した利権があるからだ」
オーレス伯爵は、淡々と続けた。
「男爵が、紙だったように。皇太子派の筆頭侯爵は、ワイン。第三王子派の筆頭辺境伯は、砂糖。そのバランスが崩れると——どうなるか、分かるな」
緒方は、すぐには答えなかった。
今、目の前の男が口にしたのは、単なる商談ではない。この国の力の均衡そのものを、自分という一人の人間の手で、わずかにでも動かせる、という話だった。
それを引き受けるということは、もう、ただの商人としては生きられない、ということでもある。
「入手は、可能です」
緒方は、短く、そう答えた。
「なんと——誠か」
その声に、わずかな驚きが混じる。伯爵にとっても、この返答は、想定の少し先にあったらしい。
「はい。ただ——その後は、どうなりますか?」
緒方の問いに、部屋の空気が、一段、重くなった。




