第5話 あなたは帰ってきたのに
インターホンが鳴ったのは、その日の午後だった。
母が応対に出る声が、二階の部屋まで聞こえてくる。最初は普通の来客のような口調だったが、すぐに困惑した響きに変わった。
「拓也、ちょっと下に……」
声に呼ばれて階段を下りると、玄関先に立っていたのは、見覚えのある二人だった。賢者の母親と、聖女の母親。学校の保護者会で何度か顔を合わせたことがある。
「あなたは帰ってきたのに、どうしてうちの子は——」
賢者の母親の声は、最初の一言からすでに震えていた。涙ではなく、怒りの方が先に出ている震え方だった。
「半年ですよ。半年、行方不明のままなんです。それなのに、あなただけが先に帰ってきて。何か知ってるはずでしょう」
「うちの娘もです。あの子、人見知りで、一人で外に出るのも苦手な子だったのに」
聖女の母親が続けて言う。声は賢者の母親より低く抑えられていたが、目の縁が赤くなっていた。
「最後に会ったのはいつですか。何があったのか、せめて、それだけでも」
拓也は何も答えられなかった。答えを持っていないわけではない。持っているからこそ、言えない。
「……すみません。覚えていることが、あまりなくて」
その一言が、火に油を注いだ。
「覚えていない? ふざけてるの?」
賢者の母親が一歩前に出る。母が間に入ろうとしたが、止める前に、もう一度声が飛んできた。
「うちの子がどうなったか、あなたなら分かるはずよ。なのに、覚えていないなんて言葉で済ませるつもり?」
「お母さん、落ち着いてください」
母がようやく間に入り、二人の前に立つ。それでも賢者の母親の勢いは収まらず、しばらく玄関先で押し問答が続いた。聖女の母親は途中から何も言わず、ただ拓也の顔を見ていた。何かを見極めようとしているような目だった。
最後は、近所の目を気にした母が、二人を何とか帰した。賢者の母親は最後まで納得していない様子で、聖女の母親は深く頭を下げてから帰っていった。あの一礼の意味を、拓也はまだ分かっていない。
その日の夜、玄関のチャイムがもう一度鳴った。今度は、剣聖の実家が経営する道場の主だった。
「お邪魔して申し訳ない。娘のことで、少しだけ話を伺いたくて」
声は静かだった。怒りも涙もない、淡々とした口調だった。拓也が同じように「覚えていない」と答えても、深くは追及せず、
「分かった。無理に聞き出すつもりはない。ただ、何か思い出したら、いつでも連絡してほしい」
とだけ言って、名刺を一枚置いて帰っていった。剣道の道場を背負う者としての、感情を表に出さない佇まいが、賢者の母親とは対照的だった。
緒方家にも連絡が行ったらしいが、緒方自身に身寄りが少なく、年老いた親族が一人、電話越しに短く事情を尋ねただけだったと、後で母から聞いた。「諦めているような声だった」と母は言っていたが、それがどういう感情なのか、拓也には想像するしかなかった。
勇者の家庭からは、誰も訪ねて来なかった。連絡先がそもそも繋がらないらしい、という話を、母がどこかで聞いてきていた。
数日のうちに、自宅の周辺で見慣れない車を見かけることが増えた。記者らしき人影が、道の向かいに立っているのを母が見つけ、すぐにカーテンを閉めた。
「お父さんが、向こうの会社に抗議の電話を入れたみたい」
母がそう言っていたが、効果があったのかどうかは分からない。ただ、ある朝を境に、その人影は見えなくなった。藪田の同期が動いたのか、別の誰かが動いたのか、拓也には知る術がなかった。
藪田は、本庁の科学捜査に詳しい同期に、結局連絡を入れていた。
「鑑識の結果、おかしいんだよな。お前のところで、似たような未鑑定の金属、扱ったことないか」
電話越しに尋ねると、同期は少し考えてから、
「ないな。少なくとも俺の知ってる範囲じゃ、前例がない」
とだけ返してきた。それ以上の進展はなかった。捜査は、振り出しに戻ったまま止まっている。
藪田は報告書の文面を、結局「捜査中」という言葉で締めた。それ以上のことは、まだ誰にも書けなかった。




