第4話 おかえり、と言われて
退院した日の夜、自分の部屋のベッドに横になって、拓也はようやく一人になれた気がした。
父は朝早くに出て、夜遅くまで帰らない。今日だけは半休を取って病院に来ていたが、それも珍しいことだった。明日からはまた、いつもの時間に家を出ていくのだろう。
母はしばらく仕事を休むと言っていた。パートの勤務先に事情を話して、しばらく休みをもらったらしい。日中はずっと家にいて、拓也の部屋のドアを何度も開けようとして、その都度思い直したように手を止める音が聞こえてくる。
姉は普段通り、地元の高校に通っている。病院には来なかった。母も父も、その理由については何も言わなかった。拓也が戻ってきた日の夜、ようやく部屋の前で一度だけ足を止めて、
「……おかえり」
とだけ言って、それ以上は何も聞かずに自分の部屋に戻っていった。短い一言だったが、その短さの中に、安堵と気まずさが半分ずつ混ざっているのが分かった。なぜ病院に来なかったのか、拓也はまだ聞けていない。家族の中で、一番拓也と距離を測りかねているのは姉なのかもしれない。
姉の名前は静香。両親が若い頃に熱を上げていたアイドルの名前を、ふざけて付けたものだと聞いている。「拓也」の方も同じ理由だと、後で知った時には正直うんざりした。中学では二人とも、ことあるごとにそのアイドルの名前でからかわれた。姉は特に嫌がっていて、高校受験では拓也と同じ学校に進む可能性を自分から消すように、女子校を選んだ。からかわれる相手が同じ校舎にいなければ、少しは静かになるだろうという計算だったらしい。
その選択が正解だったのかどうかは、拓也には分からない。最近の姉は、家にいる時間そのものが減っている。部屋に籠もる時間が長く、たまに顔を合わせても、何かを抱えているような、落ち着かない空気を纏っていることがある。聞いていいことなのか、拓也にはまだ判断がつかなかった。
翌朝、母が作った朝食を一緒に食べた。普段より明らかに品数が多い。栄養が偏っていたはずだから、と母は言ったが、拓也の体感では、むしろ以前よりずっと調子が良かった。それを口に出すわけにはいかなかったので、黙って茶碗を空にした。
「無理しなくていいから。学校は、ゆっくりでいいって先生も言ってたし」
母がそう言うのを、拓也は「うん」と短く返した。本当のところ、無理をしているのは食事の量を抑えることの方だった。
日中、母が買い物に出た隙を見て、拓也は自分の部屋の窓を閉め、カーテンを引いた。
竹刀は道場に置いたままだったが、部屋の隅に立てておいた木刀が一本ある。それを手に取り、構えてみる。
いつもの構えだった。だが、何かが違う。
以前は、構えるたびに肩のどこかに余計な力が入っていた。それを意識して抜く練習を、半年もの間、ダンジョンでの実戦を繰り返しながら身につけてきたはずだった。今、構えてみると、その余計な力がどこにもない。最初から抜けている。
一度、素振りをしてみる。
空気を切る音が、いつもより鋭く聞こえた。気のせいだろうか。もう一度、同じ速さで振ってみる。やはり、何かが違う。重さの感じ方が変わっている。木刀そのものは何も変わっていないはずなのに、まるで軽くなったように手の中で動く。
拓也は木刀を置き、今度は素手で、壁にかけてあった時計を見ながら、できるだけ速く拳を突き出してみる。動作そのものに意味はない。ただ、自分の体がどれだけ速く動くのか、確かめたかった。
——速い。
明確にそう感じた。以前の自分なら、もっと遅かった。腕の振りに、迷いのような一瞬の溜めがあったはずだ。今は、考えるよりも先に拳が出ている。あの罠の場面で、聖女を抱えて投げた時と同じ感覚だった。考える前に体が動く。あれは緊急時の特殊な反応だと思っていたが、どうやら違う。今の自分にとっては、それが標準の速さらしい。
窓の外で、車の音がした。母が帰ってきたのかもしれない。拓也は急いで木刀を元の場所に戻し、ベッドに腰を下ろした。何でもない顔を作る練習も、ここ数日でずいぶん慣れてきた。
ドアが開く音がして、母が顔を覗かせる。
「拓也、お昼、何か食べたい物ある?」
「……特にない。何でもいいよ」
短く答えると、母は少し心配そうな顔をしたが、それ以上は聞かずにドアを閉めた。
一人になった部屋で、拓也はもう一度、自分の両手を見る。
半年の間、この手は何度も剣を握り、何かを断ち切ってきた。その重みが、まだ自分の中にどう残っているのか、拓也自身にもよく分からなかった。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
このまま黙って学校に戻れば、剣道部の連中はすぐに気づくだろう。竹刀を握った時の重心、踏み込みの速さ、振りの軌道。隠そうとしても、体が勝手に語ってしまう部分が、きっとある。
別人を演じる必要はない。今までの自分のままでいい。ただ、力を出し切らないようにする。今の自分が出せる速さの、半分か——いや、三割くらいに抑えておけば、ちょうど以前の自分と同じくらいに見えるはずだ。
学校に戻るまでの数日間で、その「抑え方」をどこまで体に馴染ませられるか。拓也はまだ、その感覚を掴めていなかった。




