第3話 筋が通らない
意識が痛みから戻ってくる。
最初に分かったのは、自分がどこかに沈んでいるという感覚ではなく、背中に当たる感触が硬すぎるということだった。罠の底の冷たい石ではない。柔らかさはあるが、慣れない硬さの上で寝かされている。
腕が重い。点滴の管が刺さっているのだと、しばらくしてから気づく。
目を開けると、白い天井がある。蛍光灯ではなく、柔らかい色の照明だった。それだけで、ここがあの世界ではないと分かる。落ちた感覚は確かにあった。床が抜けて、聖女を投げて、それから——そこで記憶が途切れている。
ベッドの脇に置かれたモニターが、規則的な音を立てている。その音に紛れて、廊下の向こうから足音が近づいてくるのが聞こえた。
「意識が戻りました——」
ナースステーションに向けた看護師の声が、開いたままのドアから漏れてくる。それを境に、それまで静かだった廊下が急に慌ただしくなった。複数の足音、押し殺した声、何かをこすり合わせる紙の音。
最初に部屋へ駆け込んできたのは母だった。
「拓也」
声が震えている。父はその後ろで一度足を止め、何も言わずに口を引き締めた。母が涙を見せるのに対して、父は表情をほとんど動かさない。ただ、拓也の顔から視線を外さなかった。
白衣の医師が母をやんわりと脇に促し、ペンライトで瞳孔を確認する。腕や脚を軽く動かし、関節の反応を見る。一連の動作には淀みがなく、慣れた手つきだった。
「外傷はありません。脱水と疲労はありますが、命に関わるものではないですね」
医師はそう言ったあと、一瞬だけ手を止めた。拓也の腕の筋肉に触れたまま、何かを測るような目をする。
「……ただ、少し筋肉の質が、普段の生活で出来上がるものとは違うような気もしますが」
言葉の途中で、医師は自分の発言を打ち切るように小さく咳をした。深刻な異常ではない。報告書に書くほどのことでもない。そう判断したのが、横で見ていてもよく分かった。
部屋の入口に、見覚えのない男が二人立っていた。背広姿で、刑事だとすぐに分かる。片方は若く、もう片方は白髪の混じった、五十代くらいの男だった。
「お話しできる状態になったら、少しだけ伺いたいことがあります」
白髪の刑事が、母に向かってそう言った。物腰は柔らかいが、目だけは部屋の隅々まで一度ずつ確認しているような動き方をしていた。
「拓也」
母がもう一度、名前を呼ぶ。
「ただいま」
それだけ言うと、母が短く息を呑む音が聞こえた。父は何も言わなかった。安堵しているのか、まだ納得していないのか、その横顔からは判断がつかない。
——言えない。
考える前に、その結論だけが先に出来上がっていた。何が起きたのかを説明する言葉を、自分はまだ持っていない。持っていたとしても、口にした瞬間にこの部屋にいる誰も信じないだろうということは、妙にはっきりと分かった。
検査と説明が一通り済んだあと、刑事の聞き取りが始まった。母は同席を求めたが、未成年であることを理由に、児童相談所の職員が一人立ち会う形になった。
白髪の刑事が、机の上に透明な袋に入った二本の品を置いた。ショートソードと、ダガー。拓也が異世界で実際に使っていたものだった。
「これは、君の持ち物だね」
「……はい」
「鑑識に回したんだが、面白いことになっていてね」
刑事はそう言って、淡々と説明を続けた。刃の成分が、国内で流通する鋼材のどれとも一致しない。鍛造の痕も、手作業特有のものだが、現代の工房で使われる工程とは違う。柄の素材も、樹脂でも一般的な木材でもない、未知の繊維質だという。
「銃刀法の扱いにも困っていてね。模造刀でもない、輸入品の登録もない。どこで、誰から手に入れた」
「……分かりません」
「分からない、か」
刑事はそれ以上追及せず、一度だけゆっくりと頷いた。長年の経験で、何かを見極めようとしている目だった。
「もう一つ。君が消えたのは、半年近く前だ。学校の道場で、同期と一緒に最後に見られている。それから今日まで、どこで、どうしていた」
拓也は一瞬、間を置いた。考える前に組み立てておいた言葉を、ゆっくりと取り出す。
「……山に、入っていたと思います。途中から記憶が、はっきりしていないです」
「山、か」
「狩りをして、食料を確保していました。獣を獲ったり、川で魚を捕ったり」
刑事は何も言わずに、拓也の顔を見ていた。それから手元の資料に目を落とし、もう一度顔を上げる。
「半年だ。冬もある。装備もなしに、それだけの期間を一人で過ごせるものかね」
「……分かりません。覚えていないところが、多くて」
その言い方が苦しいのは、拓也自身が一番分かっていた。だが、これ以上の説明を持っていない以上、繰り返すしかなかった。
刑事はしばらく沈黙したあと、小さく息を吐いた。
「分かった。今日はここまでにしておこう」
部屋を出る前に、刑事はもう一度だけ、ショートソードの入った袋を見下ろした。
「——筋が通らない。それだけは確かだ」
誰に言うでもなく、そう呟いていた。
刑事——本庁から応援に来ていた藪田は、署に戻る車の中で、助手席の若い同僚にも何も話さなかった。
半年消えて、何の説明もなく現れた少年。栄養状態は良好で、外傷もない。なのに、得物だけはどこの国にも存在しない金属でできている。
報告書には、何と書けばいい。
「不明」と書けば、上から突っ込まれる。「異世界から来た」などと書けば、即刻外される。どちらにせよ、自分の立場が悪くなることだけは確かだった。
藪田は携帯を取り出し、画面を眺めたまま、しばらく操作しなかった。本庁の科学捜査に詳しい同期の名前が、連絡先の一覧に出ている。相談すれば、何か分かるかもしれない。だが、相談した時点で、この件は自分の手を離れていくだろう。
画面を閉じ、携帯を懐にしまった。
「……まだ、早いか」
それだけ呟いて、藪田は窓の外に目を向けた。
行方不明者の氏名は、その日の夕方には地域のニュースで報じられた。中野拓也、十六歳、半年前に行方不明になっていた高校一年生。発見時の状況については「捜査中」とだけ伝えられた。
翌日、未成年であることへの配慮と、捜査上の理由から、続報の取材は控えるようにという要請が、警察上層部からメディア各社に出された。藪田の同期がどこまで動いたのかは、拓也には知らされていない。ただ、病室の前に集まりかけていた記者の姿は、その日のうちに見えなくなっていた。
検査入院は一日だけで済んだ。
翌日には退院の許可が出て、両親と一緒に久しぶりの自宅に戻った。数日は学校を休み、自室で静かに過ごすことになった。
部屋は、半年前と何も変わっていなかった。机の上の参考書も、壁にかけた竹刀袋も、そのままの位置にある。だが自分の方は、何も変わっていないとは言い切れない自覚があった。
浴室の鏡に映る自分の体を見て、拓也は一瞬だけ手を止めた。
以前より、肩の筋肉のつき方が違う。重心の感覚も、何かが変わっている。それが半年の野営生活によるものだという説明を、自分自身ですら信じられていなかった。




