第2話 補欠の斥候
小山市の剣道部の道場で、一年生の俺達は数人で後片付けをしている。ここの剣道部は令和九年の全国大会で男女共に優勝した。当時中学生だった俺は矢板市からこの高校を目指して受験をして、現在剣道部に入部している。
中学の時は県で個人優勝を一度獲得している。だがここには全国から優秀な者が集まっていて、同学年の中でも八番目、団体戦の補欠レベルだ。同学年の上六人は今のレベルでは突破できない、食いついていけるのは七番くらいだ。ところが一年上の実力でも、剣道部員全員の上五人は異次元だ——壁は厚い。そして顧問の先生は元剣道日本一、神様みたいな人だ。
我々一年は二年の先輩が指導係で指示をしてくれる。レギュラー候補の六人には優しい先輩だが、七位か十位くらいは微妙な態度で接してくる。その下は先輩のおもちゃ状態だ。仮に一年でレギュラーの実力があっても、道場の清掃は一年の仕事になっている。
寮生活と早朝練と夜練のサイクルに体が慣れたのは最近のことだ。朝五時起き、授業、午後練、夜練、自習、消灯。気づけば毎日同じ順番で時間が過ぎていく。授業中に意識が飛ぶのはもう日常で、剣道部員が机に伏せていても教師はだいたい見逃してくれる。最初は申し訳なさで肩をすくめながら寝ていたが、二年の先輩たちは堂々と腕を組んで爆睡している。あの域に達するまで、まだ俺には時間がかかりそうだ。
入学してまだ間もない一年は、部活以外の生徒とほとんど接点がない。寮と道場と教室の三角形だけで毎日が完結していて、他のクラスの人間がどんな顔をしているのか、正直よく分からない。たまにクラスで話しかけられても、剣道部というだけで一歩引かれる空気を感じることがある。文武両道の看板の裏で、こっちはこっちで結構な孤独を抱えている。
先輩のいじりも一年の通過儀礼だ。竹刀の片付け係を押し付けられるくらいはまだ序の口で、的を外すたびに「八番、また外したぞ」と数字で呼ばれる。名前を覚える価値がないと思われているのか、単に呼びやすいだけなのか、いまだに判断できない。それでも理不尽さの中に妙な愛嬌があって、先輩たちも本気で見下しているわけではないというのは、半年もいれば肌で分かるようになる。
ある日、いつものように激しい練習を終え、片付けをしていた。竹刀を木刀台に戻し、雑巾で床板を拭く。何百回も繰り返してきた手順で、今日も同じように終わるはずだった。
その時、視界の端が歪んだ。最初は寝不足による目の錯覚だと思った。瞬きをして誤魔化そうとしたが、歪みは消えずに広がっていく。道場の壁が水面のように波打ち、床の木目がぐにゃりと曲がって見えた。
次の瞬間、足元の感覚がなくなった。
重力が消えたのか、それとも増えたのか分からない。体がどこにも属していないような、妙な浮遊感だけがある。声を出そうとしたが、息を吸う先がどこにあるのかも分からなかった。一瞬の出来事だったはずだが、感覚としてはひどく長く引き伸ばされていた気がする。
気が動転したまま、ただ目を開けていることだけに集中する。やがて視界の歪みがゆっくりと収まり、代わりに別の景色が像を結んでいった。
暗い。空気が違う。道場のひやりとした匂いの代わりに、土と煙の混じった匂いが鼻先を突く。見上げると、夜空に見たことのない数の星が散らばっていた。周囲には松明の灯りが並び、橙色の光が地面に長い影を落としている。気づけば、俺は野外の広場のような場所に立っていた。
「あれ、もしかして勇者召喚?」
の声に俺はその声の主を見た。すると数人の道着姿の一年が、男女共にいる。いち、にい、さん、しい、俺を入れて五名。ん、誰だ? あ、事務の職員だ。生徒の用事でたまたま道場に来ていたんだったな。
「姫様、成功しました。神様は我らの願いを聞き入れてくれました」
俺は「勇者? 召喚? ……姫? 神様?」何だそれ、と疑問符だらけで困惑している。すると誰かが、
「まさか、魔王退治か? 冗談じゃないよ、ネット小説じゃないんだし」
と小声で聞こえてきた。俺は「魔王退治? ネット小説?」何だそれ。俺は生まれてから教科書と剣道の本以外読んだことがない。小説なんか読めば三秒で寝ると思う。
その後、偉そうな白髪の老人によるセレモニー的な歓迎を受けて、一通りの説明をされ、勇者コースを進むことになった。
俺は支援魔術師・斥候・荷物持ち。後で賢者がいうには、いわゆる主人公枠というやつらしい。索敵、罠解除、仲間のステータス強化、敵の弱体化、アイテム管理、野営の料理など、戦闘以外の雑用を全てこなす役回りだ。派手な攻撃魔法や一撃必殺の剣技を持たないため、傍から見れば地味だろう。他の四人はこんな感じだ。
勇者、男。パーティの顔。聖剣を持ち、強力な物理攻撃と光魔法を使いこなすチート枠。正義感が強く、完璧な人格者として振る舞っている。剣道の腕も同学年一位だ。
聖女、女。パーティの生命線。回復、解毒、バリアなどの支援を行う。ヒロイン枠で、勇者の恋人らしい。元は剣道部の部員で、今はマネージャーをやっている。
賢者、男。火、氷、雷などの強力な攻撃魔法で敵の大群を一掃する殲滅役。眼鏡をかけた理詰めの天才キャラで、何かにつけて効率を優先する。聞けば異世界小説に詳しいらしく、勝手に召喚されて使い潰される未来を一人で予想していた。
「テンプレ通りなら、俺たちはこの先ずっと使い捨てだ」
と賢者がぼそりと呟いたのを、俺は聞こえなかったことにした。
剣聖、女。前衛タンク兼物理アタッカー。「剣のみの能力の者」というやつで、細剣を使う女騎士だ。剣道エリート一家の出身で、実家は道場を経営しているらしい。
そして四十代の事務仕事のおっさんが一人。困った顔をしながらも、笑顔だけは絶やさない人だった。スキルは「テラ・マート?」、現在使用不可。名前だけがあって、使い方も使用そのものもできない、原因不明のスキルだという。賢者だけが、そのおっさんの使えないスキルに、妙に熱心な目を向けていた。何かを期待しているような目だった。
パーティの構成は、勇者・聖女・賢者・剣聖の四人の超人たちに、一見地味だが実はパーティを裏で支えている俺を加えた五人。賢者がいうには、これが今の異世界小説では一番スタンダードな形らしい。そんなことを言われても、俺にはピンとこなかった。
王国の要請で、訓練としてダンジョンに入ることになった。その頃、おっさんは自ら王城を出て、町で暮らすための一年分の資金をもらい、王国が管理している家で生活の基盤を整えていた。表向きは厚遇に見えるが、実際は監視されているのだと、誰かが小声で教えてくれた。
数ヶ月の訓練を経て、魔物を殺すことへの抵抗感も少しずつ薄れていった。最初は手が震えて剣を握り直すこともあったが、今では躊躇する時間が確実に短くなっている。それが成長なのか、それとも何かを失っているだけなのか、俺にはまだ判断がつかない。
チームの雰囲気や連携は良くなり、各自のスキルも向上していった。勇者は前に出すぎる癖が直り、聖女の支援タイミングも安定し、賢者の魔法は範囲と精度を増した。剣聖の剣筋には迷いがなくなった。そうして積み重ねた時間の分だけ、互いへの信頼も少しずつ積もっていった。
そんな中、ダンジョンで事件が起きた。
俺が索敵をして、罠の位置を一つ一つ確認しながら一行を導いていた。慎重に進んでいたつもりだった。何度も同じ場所を通ってきた通路だ、もうほとんど覚えている、そう思っていた矢先だった。
壁の隙間から魔物が湧いた。一体ではない。三、四体がほぼ同時に飛び出してきて、隊列の前後が一気に崩れる。剣聖が前に出て、勇者が反応する。怒鳴るような声が交錯し、誰かが俺の名前を呼んだ気がしたが、それを聞き取る余裕はなかった。
視界の端で、聖女が後ろに飛びのいた。避けたつもりだったのだろう。だがその一歩が、まだ確認していなかった床の継ぎ目を踏んでいた。
まずいと思う前に、体が動いていた。
床が抜ける音が、やけにはっきりと耳に残った。重い金属の蓋が外れるような、低く湿った音。聖女の体が傾ぎ、足元から闇が口を開けるように広がっていくのが見えた。
考える時間はなかった。腕を伸ばし、聖女の体を力任せに引き寄せる。重さを感じる前に、もう投げていた。勇者の方へ、力の限り突き出す。届いたかどうかを確かめる余裕すらなかった。
次の瞬間、足元の床がなくなっていた。
腕の中にあった重みが消えた直後、今度は自分の体が傾いている。誰かが叫ぶ声が遠くなり、視界が床と一緒に沈んでいった。とっさに何かを摑もうと伸ばした指先は、空気しか掻かなかった。




