第1話 プロローグ「準備中」
グレーカレコ王国、王都の外れ。市民区の片隅にある古い借家の二階で、緒方勤は、その日も同じように一日を終えようとしていた。
窓の外はもう暗い。蝋燭の灯りひとつで十分だと自分に言い聞かせているが、本当のところは油代を惜しんでいるだけだ。一年は暮らせるだけの資金を王国から与えられたとはいえ、先のことを考えると使い道には自然と慎重になる。
「……今日も、何もなかったな」
誰に言うでもなく呟いて、固い椅子に体を沈める。
緒方の一日は、ここ数ヶ月ずっと同じ形をしている。朝起きて、与えられた家から出ず、王国の役人が時々様子を見に来るのに適当な世間話で応じ、午後は近所の魔道具店に顔を出して帳簿の手伝いをし、夜は何もせずに眠る。それの繰り返しだ。
魔道具店の事務方、というのが今の緒方の肩書きだった。商品の入出庫を帳面に記し、客との金銭のやり取りを記録する。前の世界でも二十年近くやってきた仕事と、大して変わらない。違うのは、扱う商品が「魔力灯」だったり「自動で温度を保つ鍋」だったりすることくらいだ。
監視されているということは分かっている。表向きは「異世界からの来訪者への配慮」という体裁を取っているが、実際には勇者やそのパーティが順調に育っているかを見張るための、いわば人質に近い扱いなのだろう。それも仕方ない、と緒方は思っている。四十をいくつか過ぎた、ただの事務職員に過ぎない自分が、王国にとって特別な価値を持つはずがない。
スキル「テラ・マート?」。
唯一与えられたそれは、名前だけがあって、使い方も、使用そのものもできない。神官たちに見てもらった時も、困った顔をされるだけだった。「過去にも記録のない、形態不明のスキルです」とだけ言われ、それきりだ。賢者の少年だけが、妙にこのスキルに興味を示していたのを覚えている。何かを期待するような目だった。あの目の意味を、緒方はまだ分かっていない。
「期待されても、な」
苦笑いが漏れる。困った時に笑ってしまうのは、昔からの癖だ。理不尽なクレームにも、無理な納期にも、結局は笑顔で対応してきた。それが今、こんな異世界でも変わらず役に立っているのかどうかは分からないが。
その日は休日だった。この世界にも七日に一度、教会の鐘が長く鳴る日があり、王国の役人たちもその日は顔を見せない。だから緒方は珍しく、何もする予定のない、本当にただの暇な一日を過ごしていた。
市場で買った硬いパンを齧りながら、ぼんやりと窓の外を見る。
(……テラ・マート、か)
ふと、その単語が頭に浮かんだ。理由なんてない。本当に、ただ思い出しただけだ。スキル一覧を確認する時、いつも一番下に表示される、グレーアウトした使えない文字列。今日も特に期待もせず、ただの暇潰しの延長で、その文字をぼんやりと意識してみる。
——いつもと、何か違う。
目の前に、見覚えのない光景が浮かんだ。
四角い、薄い、光る板。最初は何かの幻覚かと思ったが、違う。これは——モニターだ。緒方が前の世界で、何十年も向き合ってきたあの、パソコンの画面そのものだった。
「は……?」
声が漏れる。慌てて目を擦るが、消えない。視界の中央に、半透明の四角い枠が浮かんでいて、そこには見慣れた、しかしこの世界にはあるはずのない文字が並んでいる。
「テラ・マート ベータ版」「ステータス:準備中」
画面の右上に、小さな丸い点が三つ、横一列に並んでいるのが見えた。前の世界で、嫌になるほど見てきたあのアイコンだ。ブラウザの設定を開く時に押す、あの三つの点。緒方の指先が、考える前に動いていた。
半信半疑のまま、緒方はその三点アイコンに意識を向けてみる。深く考えたわけじゃない。ただ、長年マウスを操作してきた指先の感覚で、画面の中の何かを「クリックする」つもりで、意識を一点に集中させただけだ。
カチリ、という音が、頭の中で聞こえた気がした。
画面が、切り替わる。
画面には「テラ・マート 利用規約および機能説明」とあり、その下に箇条書きが続いていた。
一、本機能は、召喚システム外部接続用の臨時拠点として生成されています。
二、本機能の存在は、管理者(神格)による認知の対象外です。
三、出店者は、対象座標(地球・日本国・栃木県小山市付近)との物資および情報のやり取りが可能です。取り扱い品目に制限はなく、日用品・食品・嗜好品・工業製品・武器類を含む、対象座標で流通する全ての物資が対象となります。
四、ご利用にあたっては、レベルポイントを対価として消費(取り寄せ時)、または獲得(出店時)していただきます。レベルポイントは出店者本人のステータス上昇に応じて取得可能な品目の上限が変動します。
そこまで読んで、緒方の手からパンが落ちた。床に落ちた音にも気付かないほど、画面に釘付けになっていた。
「小山市……?」
それは、緒方が勤めている高校の所在地だった。剣道部に入ったという、矢板市出身の一年生の子。受験の事務手続きを担当したのが、確か緒方自身だった。書類を整理しながら、矢板からなら通学も無理ではないだろうに、寮を選んだのだと印象に残っていたのを思い出す。
緒方は震える指先で、もう一度画面の中の文字をなぞる。「召喚システム外部接続」「管理者による認知の対象外」「取り扱い品目に制限はなく」。意味はまだ半分も理解できていない。だが一つだけ、確信に近い感覚があった。
これは、誰も知らない抜け道だ。
神様も、王国も、誰一人気付いていない、たった一つの裂け目。そしてそれが——奇跡的な巡り合わせとしか思えないが——あの地球の、自分が住んでいた国の、それもよく知る地域に繋がっているという。
「……まさか、な」
笑おうとしたが、上手く笑えなかった。代わりに、もう何年も忘れていた感覚が、胸の奥でゆっくりと動き出すのを感じる。
希望、と呼んでいいのか分からないその感覚を抱えたまま、緒方は画面の続きに、もう一度指先を伸ばした。
レベルポイントの欄を開いてみると、現在の所持数は「0」。隣には小さな注釈があった。「※レベルポイントの主な獲得手段:召喚契約対象者(勇者パーティ)のレベル上昇への貢献度に応じて付与されます」とある。
「貢献度、か……」
緒方は乾いた声で笑った。ここ数ヶ月、勇者パーティとは別行動を取らされている自分に、貢献度なんてものが入る余地はない。あの子たちが今どこで何をしているのかも、緒方には知らされていない。
ならば、と緒方は画面の別の項目に目を向ける。
もう一つの注釈には、「※出店による獲得:出店者自身が提供する物資・情報が、対象座標の購買者に受領された際、評価に応じてポイントが付与されます」とある。
「……売る方なら、できるかもしれないな」
王国の片隅で埃を被っているクラシックな小物や、効果のない魔道具——「魔力が無い人には魔法が出ません」と注意書きの貼られた、誰も買わないガラクタたち。それを、向こうの世界の誰かが、面白がって買ってくれるかもしれない。
長年の事務仕事で染みついた、地道な性分が静かに動き出すのを、緒方は感じていた。
一足飛びの大きな成果ではなく、小さな取引の積み重ね。それなら、自分にもできる気がした。
窓の外で、教会の鐘が遠く鳴った。




