第23話 ある日を境に
神崎との顔合わせから、数日が過ぎていた。
拓也の日常は、表面上は何も変わっていなかった。剣道部の朝練、授業、寮での生活——いつもと同じ毎日が続いている。それでも、あの会議室でのやり取りだけは、何度も頭の中で繰り返していた。
―――
藪田が、神崎から呼び出されたのは、ちょうどその頃だった。
「グレーカレコ商事、ですか」
藪田は、渡された資料に目を通しながら、首を傾げた。
「鑑定済みの商品を購入した客のリストです。とりあえず、簡単な聞き取りをお願いしたい。商品の入手経路と、配送の状況について」
「分かりました……ただ、これ、捜査というより、商取引のトラブル相談みたいな話ですね」
「そう見えるように、扱ってください」
神崎は、それだけ言うと、それ以上の説明はしなかった。藪田は、リストに並んだ名前を、ひとつひとつ目で追っていく。地元の主婦、学生、定年退職した男性——ごく普通の客の名前ばかりだった。
「……こんな雑用、俺がやる仕事なんですかね」
誰に言うでもなく、藪田はそう呟いた。リストの中に、自分が追いかけている事件の核心が隠れているとは、まだ気づいていなかった。
―――
その数日後、拓也は再び、藪田から呼び出しを受けた。
今度も、同じ会議室だった。神崎が、前回と同じように、淡々とした様子で待っていた。
「今日は、もう一つだけ、伺いたいことがあります」
「……何ですか」
「『グレーカレコ商事』という名前に、聞き覚えはありますか」
拓也の心臓が、一瞬、跳ねた。表には、何も出さなかったつもりだった。
「……いえ、知りません」
「そうですか」
神崎は、それ以上は追及せず、淡々と説明を続けた。
「小山市内の取引記録の中に、その名前で動いている業者があります。扱っている商品の中に、鑑定に出すと成分が国内のどれとも一致しない金属が、いくつか含まれていてね。配送の方法も、妙でしてね。配達員の記録がないのに、深夜のうちに荷物だけが届く」
拓也は、何も答えなかった。だが、神崎の話は、まだ続いた。
「もう一つ、気になっているのは、問い合わせの窓口のことです。最初の数ヶ月、購入者からのやり取りは、文章でずっと続いていました。それが——ある日を境に、ぱたりと止まっている」
拓也の頭の中で、その「ある日」が、すぐに像を結んだ。専用通信機能が解除され、緒方と声で話せるようになった、あの日だ。
——気づかれてる。
いや、まだ分からない。神崎の表情からは、何も読み取れない。確証があって言っているのか、ただの並べた事実なのか、判断がつかなかった。
「……何かの参考になればいいんですが、本当に、心当たりがありません」
拓也は、声が震えないように、それだけ言った。
「分かりました。今日はここまでにしておきます」
神崎は、それだけ言って席を立った。会議室を出る間際、一度だけ拓也の方を見た。
「——いい日でしたよ。あなたのおかげで、いくつか確認が取れました」
穏やかな声だった。だが、何が「確認できた」のか、神崎は最後まで言わなかった。
会議室を一人で出た後、拓也は寮への道を歩きながら、ようやく一つのことに気づいた。
——読心スキル、使えばよかったんじゃないか、俺。
あの場で、神崎の考えていることを一瞬でも読んでいれば、どこまで知られているのか、はっきりしたはずだった。それなのに、緊張のあまり、そんな初歩的なことすら頭から抜けていた。
ダンジョンでは、命の危機にすら冷静に立ち回れていたはずなのに。スーツを着た一人の中年男性相手に、自分の手の内をすっかり忘れる始末だった。
——情けない。
拓也は、小さく息を吐いて、それ以上は考えないことにした。今更、後悔したところで、時間は戻らない。
―――
翌日、拓也は剣道部の朝練に出ていた。
力を抑える加減には、もう慣れたつもりだった。試合では当たり障りのない結果に収め、目立たないように、わざと一本を落とすことさえある。順位決め戦の引き分けで、学年トップという結果になってしまった今、これ以上は目立つ真似をしたくなかった。
ところが、放課後、思いがけない方向から声をかけられた。
「中野くん、ちょっといいかな」
陸上部の顧問だった。
「実は、体育の授業の記録を見せてもらってね。五十メートル走、再計測の前の数字の方なんだけど」
拓也は、内心で固まった。あの「計測ミス」として処理されたはずの数字が、まだどこかに残っていたらしい。
「うちの部に、興味ないかな。県大会、いや、全国も狙えると思うんだけど」
「……あれは、計測ミスだったので」
「そうなのかな、とも思ったんだけどね。一応、声をかけておかないと、後で悔しい気がして」
顧問は、それだけ言って、名残惜しそうに去っていった。
拓也は、しばらくその場に立ち尽くしていた。剣道部では目立たないように苦労しているのに、まったく別の場所から、しっかり目をつけられていたらしい。
——加減って、難しい。
今度は別の意味で、頭を抱えることになった。
―――
その夜、拓也は自室で、緒方との通話を繋いだ。
「今日、変な人に会いました」
「変な人?」
「神崎って名前の人です。たぶん、警察関係の人だと思うんですけど……隼人に、なんか似てました」
通話の向こうで、緒方が一瞬、黙った。
「……神崎、か」
「知ってます?」
「いや。ただ、その名前には、心当たりがある」
緒方は、それ以上は語らなかった。拓也も、無理に聞き出そうとはしなかった。何か、お互いに言葉にしない方がいいことがある、そんな空気が、通話越しにも伝わってきた。
「……気をつけろよ」
「はい」
それだけで、通話は終わった。




