第182話 火種
深夜、緒方は執務机に向かい、帳簿と睨めっこをしていた。
数字を指でなぞる。
——おかしいな。
先月と今月とで、食費の欄が明らかに様子が違う。
ドラヴァスが隣の屋敷に移ってから、まだそう日は経っていない。それなのに、仕入れの量が以前の倍近くに膨れ上がっている。
「肉と、パンと……この麦の量、桁を間違えたか?」
緒方は帳簿を二度見した。間違いではない。
ため息をつきながら隣の部屋を覗くと、エレーナが本の整理をしていた。
「エレーナ、ちょっといいか」
「はい、どうされました?」
「これ、見てくれ。食費が、えらいことになってる」
差し出された帳簿に、エレーナは目を通す。ややあって、小さく頷いた。
「竜人の方々は、魔力量に比例して食が細くならないものですから」
「……それ、もっと早く教えてほしかったな」
「申し訳ございません。あまりに当たり前のことでしたので」
エレーナはそう言うと、少し困ったように微笑む。
「臣下の方々も、いずれ同じように増えていきますよ。この程度では、まだ序の口かと」
「まだ、序の口……」
緒方は頭を抱えたくなった。事務職員時代、経費の桁が一つ違うだけで胃が痛くなった感覚が、久しぶりに蘇ってくる。
「あの、緒方様」
エレーナが静かに切り出す。
「差し出がましいようですが……こういったことは、わたくしの実家では日常のことでした。よろしければ、力にならせてください」
緒方は思わず、エレーナの顔をまじまじと見た。
本に詳しい。契約魔法にも詳しい。だが、屋敷の切り盛りという実務の面で、エレーナを頼ったことは、これまでなかった。
「エレーナが? ……いや、頼む。正直、俺には、この規模の家計は想像もつかない」
「畏まりました」
エレーナは机の上に、真新しい紙を一枚広げた。
「まず、食料は月ごとの契約に切り替えるべきかと。商会とまとめて仕入れの約定を結べば、日々の値の揺れに振り回されずに済みます」
「なるほどな。単発で買うより、まとめ買いか」
「はい。それと——」
エレーナは一拍置いた。
「臣下の方々への対価の話も、避けては通れません」
「対価……給料、ってことか」
「緒方様の国では、そう呼ぶのですね」
エレーナは興味深そうにそう呟いてから、続ける。
「ただ、臣下の方々は、お館様に仕えることそのものを当然の誉れと考えています。金銭を渡すという発想は、おそらく、そちらからは出てきません」
「それじゃ、いつまで経っても対価を払う話には、ならないってことか」
「はい。ですから——緒方様の方から、形にして差し出す必要があります」
エレーナは紙に、簡単な表を書き始めた。
「役目に応じて、住まいと食事と、いくらかの手当てを。ドラヴァス様のように魔石充填で稼げる方は、その分を上乗せする形で。ただの施しではなく、働きに見合った形にすることで、皆様の誇りも守れるかと」
緒方はその表をじっと見つめる。
派手さはない。だが、筋の通った地に足のついた案だった。
「……エレーナ、お前、本当に頼りになるな」
「本のことしか能がないと、思われていましたか?」
エレーナは悪戯っぽくそう言って、微笑んだ。
「いや……そうじゃないが」
緒方は少し気まずそうに、頭をかく。
「侯爵家で、こういうことを任されてたのか」
「ええ。跡取りではありませんでしたから、その分、屋敷の切り盛りの方を仕込まれておりました」
その言葉に、緒方は何も言えなかった。
貴族の娘として生まれ、跡を継げないという立場ゆえに培われた実務の力が、今こうして、異世界に流れ着いた事務職員の窮地を救っている。
巡り合わせというのは分からないものだと、緒方は改めて思った。
「よし。この案で、まず動いてみよう」
「はい」
二人はその夜、遅くまで紙の上に、細かな数字を書き連ねていく。
それでも——緒方の頭の片隅には、小さな不安が残っていた。
もっとも、金に困っているわけではない。日本からの仕入れという、他の誰にも真似できないアドバンテージがある以上、懐に余裕がないわけではなかった。
それでも——不安は消えない。
二十年近く、事務仕事に染みついた性分が、そう簡単に抜けるはずもない。数字が右肩上がりに増えていくのを見ると、それが黒字であっても、条件反射のように身構えてしまう。
「儲かってるのに、なんで、こんなに不安になるんだかな……」
緒方は誰にともなく、そう呟いた。
合理的でないことは、自分でも分かっている。それでも、この性分だけは、どうにもならない。
二人がようやく、表を書き終えた頃だった。
扉の外で、慌ただしい足音がした。ノックもそこそこに、ガインが部屋に飛び込んでくる。
「お館様がお呼びです。至急、こちらへ」
「こんな時間に? 何かあったのか」
緒方が腰を上げながら、尋ねる。
「帝国から逃げて来た者がいると。それも……皇族の血を引く方だそうです」
「皇族……ですか」
エレーナの声が、わずかに固くなる。
「もとは、この国に逃げ延びてきただけだったようですが……市井で、お館様の噂を耳にしたようで。今朝がた、急に面会を申し入れてきたと」
「噂って……そんなに広まってるのか」
緒方は思わず、額を押さえた。
「馬を扱う商会が、国境を越えて商いをしております。荷と一緒に、話も運ばれていたのでしょう」
ガインはそう付け加えた。
「受け入れるかどうか、まだ決まってはいないんだろう?」
「ええ。ですが、お館様は……断りきれない様子でした」
緒方はたった今、書き終えたばかりの表に目を落とした。
臣下の食費すら、ようやく形にできたばかりだった。そこに一国の皇族が加われば——警備も体裁も、これまでとは桁違いの話になる。
それだけでは済まない。
皇族を匿うということは、帝国そのものに対して明確な意思表示をすることになる。もはや屋敷の家計の話では、なくなってしまう。
「……エレーナ」
「はい」
「これ、俺たちの手には負えない話に、なってきたな」
エレーナは静かに頷いた。
その表情には、緒方と同じ拭いきれない不安が確かに滲んでいる。
そしてもう一つ——ガインが声を落として、付け加えた。
「それと……その皇族の御方に随行してきた者の中に、少々動きの怪しい者が一人。ドラヴァス様も気づいておいでのようです」
間者かもしれない、とは誰も口には出さなかった。だが、その場の空気だけで十分に伝わっていた。
ーーー
翌朝、緒方とエレーナは隣の屋敷を訪れる。
応接の間には、旅装のまま疲れ切った顔をした青年が座っていた。名を、レナートと名乗った。帝国の皇族の傍流——先の内戦で粛清の手が及んだ一族の生き残りだという。
ドラヴァスは、しばらくレナートの話に黙って耳を傾けていた。
「儂を頼ってきた理由は?」
「……ここに、亡命した魔王がいると聞きました。同じ逃げる者同士——分かり合えるのではないかと」
「分かり合える、か」
ドラヴァスは静かに笑った。だが、その目は笑っていない。
「一つ聞くが——お前は何を望む? 安住の地か。それとも、いずれ帝国に戻り、玉座を取り返すことか」
レナートは一瞬、言葉に詰まった。
「……分かりません。今はただ、生きたい、それだけです」
その答えに、ドラヴァスは少しの間、目を閉じた。
かつての、自分自身の姿と重なって見えたのかもしれない。
「よかろう。客人として迎え入れる」
「ありがとう、ございます……!」
「ただし」
ドラヴァスの声が、一段低くなる。
「儂は、お前に兵も金も貸さん。玉座を取り戻す手伝いは、しない。ここで守るのは、お前の命だけだ。それ以上を望むなら、他を当たれ」
その線引きに、レナートは深く頭を下げた。
「重々、承知しております」
ドラヴァスは緒方の方を見た。
「緒方、済まんな。また世話をかける」
「いえ……ただ」
緒方は少し考えるように、間を置いた。
「これは、もう俺たちだけで抱えていい話じゃないと思います」
ドラヴァスは静かに頷いた。
「分かっておる。王妃殿にも、筋を通さねばならん」
ーーー
その日のうちに、エレーナは実家に使いを出した。
オーレス侯爵——エレーナの父は、その報せを受けると、すぐに屋敷へと駆けつけてくる。
「皇族の亡命者を匿っただと? エレーナ、お前……分かっているのか、これがどれほどの重みを持つか」
「はい、父上。承知の上です」
エレーナはまっすぐに、父を見返した。
「ですが、断るという選択肢は、ドラヴァス様にも緒方様にも、ありませんでした。それが、あの方々の性分ですから」
侯爵はしばし、娘の顔を見つめる。
「……お前は変わったな」
「そうでしょうか」
「昔は、本の陰に隠れて多くを語らぬ子だった。今は、こうしてまっすぐに物を言う」
侯爵は小さく息をつくと、表情を切り替えた。
「よかろう。この話、私から王妃陛下にお伝えする。だが——」
「だが?」
「王妃陛下が、これをどう判断されるか。私にも、まだ読めん」
その言葉に、緒方とエレーナは顔を見合わせた。
家計の心配から始まった小さな綻びは、いつの間にか、国同士の思惑が絡む大きな話へと育ちつつあった。




