第179話 契約の起源
緒方は、拓也から届く、日々目まぐるしく変わる日本の政治改革の情報に、驚かされてばかりいた。
その日も、夕食の席で、緒方は、妻・エレーナに、日本の政界の実情を、世間話として聞かせていた。
「日本では、契約魔法が無いのでしたね」
エレーナが、ふと、そう言った。
「あー、無いよ。魔法すら、ないからな」
「昔、人々は、自分の利益のために、平気で嘘をつく——そんな、傲慢な集まりでした。これは、神話の物語として、本にもなっているのよ」
エレーナが、まるで昔話でも語るように、そう教えてくれた。
その本の名は——『神の憂いと誓約の世界 ――傲慢なる人類に刻まれし契約の魔法――』というらしい。人々が、心優しく成長していくための、道徳と実務を兼ねた本なのだという。
これとは別に、口伝をまとめた——傲慢な時代に、契約魔法がどのようにして浸透していったかを記した本も、あるらしい。
「その本は、ここに?」
「ここには無いわ。でも、内容なら、覚えているの」
エレーナは、そう言うと、少し、遠い目をした。
緒方は、いつの間にか、箸を置き、エレーナの話に、耳を傾けていた。
時代は、超古代文明——魔法が、それほど浸透していない頃のこと。力のある者たちが、傲慢な振る舞いをしていたという。
富を収奪し、国民を奴隷のように扱う、皇帝がいた。
少し離れた王国には、英雄王が生まれた。
彼は、生まれながらにして、神との契約を受けて生を享け——世界に……
ーーー
数日後。
執務室の机に、エレーナが一枚の書類を置いた。
「神殿から、こんなものが届いていますよ」
表題には「日本への契約魔法伝授に関する提案書」とある。緒方は、軽い気持ちで手に取り、目を通し始めた。
「日本へ、契約魔法を?」
「ええ。この国では、もう何千年も前から根付いている仕組みですけれど……日本には、そもそも魔法そのものが無いのでしょう? だから、一から丁寧に進める必要がある、と」
「なるほどな。うちの国の政治の話も、神殿の耳に入ってるってわけか」
「そのようですね。約束を容易く破り、偽りと裏切りで人を欺く——そういう話は、神殿にとっても、他人事ではなかったようです」
エレーナは、そう言うと、緒方の隣に腰を下ろした。
「わたくしも、興味深く読みました。ただ制度として『こういうものです』と押しつけても、駄目だと。特に、魔法そのものを知らない日本の人々にとっては、不安が大きいだろうから、と書かれているんです」
「不安、ね」
「たとえば——『魔法によって縛られ、自分の意思で動けなくなるのではないか』という、自由を失う恐怖。『契約の条件が複雑で、何に同意しているのか分からない』という不信。それから、『権力者や狡猾な商人が、不利な条件を隠して結ばせるのでは』という懸念。そして——『誓いを破ったら、どんな恐ろしい罰が下るのか分からない』という、魔法そのものへの畏怖。日本の人々は、これを初めて知ることになるわけですから、なおさらでしょうね」
「なるほどな。恐怖で縛る道具だと思われたら、誰も使いたがらない」
「ええ。ですから、提案書では、四つの原則を土台に据えるべきだと」
エレーナは、指を折りながら、続けた。
「一つ、自発同意の原則。脅しや強要によって得た同意は、契約魔法として認めない。片方が本心で拒んでいれば、魔法は発動しないか、著しく弱く現れるのだと。二つ、内容明示の原則。契約の中身は、言葉と文字の両方で確認し、双方で読み合わせることを必須とする。三つ、対価平衡の原則。一方だけが著しく損をする契約には歪みが生じ、神の意志によって発動が阻まれるか、無効になる。そして四つ目——立会・神前証明の原則。重大な契約には、神官や公認の契約師といった、中立の立会人を置く」
「言った・言わないの水掛け論を防ぐ、というわけか」
「ええ。手順も、五段階に分けて定められています」
エレーナは、指折り数えながら、説明を続けた。
「まず、対話と説明——何を約束し、期間はどれほどで、守れなければどうなるか、口頭でじっくり確認する段階。次に、契約文の作成——目的、双方の義務と権利、過剰でない罰則、見直しの条件まで書き記す段階。『初めての失敗には罰を軽くする』といった条項を加えることで、不安をやわらげる工夫もあるようです」
「三段階目は?」
「立会人による確認。村長や年長者、あるいは公認の契約師や神官が立ち会って、内容が公正かどうかを確かめます。誰も見ていない場での契約を、避けるためですね。四段階目が、自由意志の宣誓——『この契約のすべてを理解し、自らの意思で受け入れる』と、神の御前で誓う。これが、魔法を正しく発動させる、一番の鍵なのだそうです」
「最後は?」
「魔法の締結と記録。淡い光の紋章が現れて、署名・押印の後、光が文字に吸い込まれる——それで、契約が成立します。契約文は、神殿と当事者の双方に、一通ずつ保管されるとか」
緒方は、腕を組んで、小さく唸った。
「日本には、まだ神殿も、契約師もいないだろう。それに——」
「それに?」
「俺は、日本には、行けない身だ。誰が、現地で立ち会うんだ」
「そこは、提案書でも、はっきりとした答えは、出ていないようです。神官を派遣するにも……そもそも、行き来できる人自体が、いませんから」
「それだけじゃないぞ」
緒方は、少し、考えるように、間を置いた。
「契約は、『神の御前で』誓う、という話だったな。……日本の神は、こっちの神とは、また別だろう。よその世界の神に誓えと言われて、日本人が、素直に頷くと思うか?」
エレーナは、その言葉に、はっとした顔をした。
「……そこまでは、考えが及んでいませんでした」
「日本には、政治と宗教を分ける決まりがある。よその世界の神殿が、信仰ごと契約の仕組みを持ち込むとなったら、それだけで、大騒ぎになりかねない」
「では……」
「神殿だけの話じゃ、収まらないってことだ。個人同士の約束なら、まだいい。だが、国として取り入れるなら——これは、国と国の話にしないと、前には進まない気がするな」
緒方は、そう言うと、書類を、もう一度、最初のページに戻した。
違反時の処罰や、普及のための細かな施策についても、目は通した。段階を踏んだ処罰、案内人の育成、小さな約束からの慣らし——どれも、よく練られてはいる。だが、緒方の頭の中では、それよりも先に、一つの考えが、はっきりと形を取り始めていた。
——これは、神殿の提案書で終わる話じゃない。
「よく考えてあるとは、思う。だが、これをそのまま持って行っても、日本は、まず頷かないだろうな」
「では、この話は……」
「無駄にはしない。ただ、持って行き方を、変える必要がある」
緒方は、書類を、丁寧に折り畳んだ。
「これ、うちの商売にも、そのまま使える話だとは思う。だが、日本のあの騒動を見てると——本当に必要なのは、宗教の話じゃなくて、国同士で結べる、もっと世俗的な約束の形なんじゃないかとも思うな」
エレーナは、くすりと笑った。
「緒方様は、本当に、何でも仕事に結びつけますのね」
「性分だからな」
そう言って、緒方は、書類を、執務机の引き出しにしまった。




