第173話 萌芽
その研究者は、また別の研究に、没頭していた。
細菌学を専門とする永井は、特殊な水槽を使い、あらゆる環境下で、黒滑菌液の培養データを取り続けている。
結果、菌液は、どのような環境下でも成長することが分かった。ただし、低温下では活動を停止し、成長は止まる。土に養分があれば、成長は早まる。厄介なことに、水分そのものも、養分として取り込んでしまうことが判明した。
「もし、水源の近くで培養すれば……その水源そのものが、枯れてしまうかもしれん」
永井は、資料を前に、そう独りごちた。
もっとも、成長速度そのものは、極めて緩やかだった。生態系に目に見える変化が及ぶまでには、何千年もの歳月がかかるだろう——そう、報告書には、付け加えられていた。
ーーー
永井は、化石燃料の硫黄や重金属を分解・沈殿させる能力を、他の有害物質にも応用できないかと、実験を重ねていた。
特に力を入れていたのは、廃棄された太陽光パネルの処分問題だった。
国の法律で、パネルを設置した県が、その処分まで責任を持つことが決定されている。おかげで、新たにパネルを設置しようという県は、すっかりなくなっていた。現在、既に設置されているパネルの処分地をどうするか——各自治体は、頭を抱えている。いわゆる『二〇四〇年問題』により、不法投棄が急増する事態も、目前に迫っていた。
永井は、パネルから出る有害物質を使い、実験を進めていく。
黒滑菌液による沈殿物が、確かに生じている。分解が進んでいる証拠だった。成分分析でも、有害物質の濃度は、明らかに減少している。物質ごとに分解速度はまちまちだったが、いずれも、着実に減っていた。
「……これは」
永井は、データを見つめたまま、しばらく、動けなかった。
この結果を、経産省に報告すれば、長年の課題解決に、一歩近づけるかもしれない——そんな確信が、静かに、胸の内に広がっていく。
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永井からの報告を受けた倉持は、この菌液を、日本国内で育てられないものかと、考え始めていた。
さしあたっては、処分されるパネルに、輸入した黒滑菌液を漬け込んでおけば、分解が進み、いずれは資源として活用できるのではないか——倉持は、そんな、大まかな構想を、頭に描いていた。
「あとは、異世界頼みだな」
結城に、菌を成長させる魔法があるかどうか、確認しておかねばならない。倉持は、そう、心に留めた。
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倉持は、官邸で、鷲尾に報告を上げた。
「以上が、永井の報告の、あらましです」
「世の中が、変わるな……パネルの処分まで、できるとは。万能すぎるだろう」
鷲尾が、そう呟いた。
「あとは、異世界頼みになりますが……呪文を唱えると、黒滑菌液が成長して、油田が出来上がる。そんなものがあれば、日本国の自前資源が誕生するんですけどね……はは。今のは、聞かなかったことにしてください」
「はは、案外、上手くいきそうな流れが来ているようだがな」
鷲尾は、そう言って、笑った。
「いちおう、油田の候補地も、検討しております。北海道・東北エリアと、西日本・九州エリア、それぞれ資料にまとめました」
倉持が、そう付け加えると、鷲尾は、資料に、静かに目を通し始めた。
ーーー
その頃、結城は、緒方から、日本側の分析結果を聞き、ソニアと、話を詰めていた。
「そんな使い方があるのか。……向こうの学者の実験資料を、取り寄せてくれ。興味がある」
ソニアが、そう言った。
「植物の成長を促進する魔法陣は、あるんですか」
結城が、そう尋ねると、ソニアは、少し考えてから答えた。
「あるにはある。だが、種を蒔いて、明日には野菜——などとは、期待しないでくれ。健康に育って、少し早く成長する程度だ。見た目では、分からないくらいのな」
ソニアは、そこで、ふと、何かに気づいたような顔をする。
「しかし——あの触媒を使えば、違うかもしれん」
その一言に、結城は、思わず、身を乗り出した。




