第172話 燃料革命
拓也から研究者へ渡っていた、黒滑菌液の分析報告書が、神崎を通じて、倉持の元に届いた。
例の黒滑菌液について、原油と同等——いや、それ以上の能力があり、精製すれば、ガソリンや軽油と同様の物質が得られることが判明したという。
「まず、これを見てください」
担当者が、資料の一枚を指し示す。
「菌液を精製したガソリンを燃やせば、確かにCO2は排出されます。ですが、それは、すぐさま地下の菌糸に再吸収される。大気中のCO2の総量そのものは、増えません。文字通りの、完全なカーボンニュートラルです」
「……本当に、そんなことが」
倉持は、思わず、声を漏らした。
ーーー
報告は、さらに続く。
「地球の原油には、太古の死骸や地層に由来する不純物——硫黄や重金属などが、大量に含まれています。これが、大気汚染や酸性雨、PM2.5の原因となってきました」
「一方、黒滑菌液は、菌類という生物の体内フィルターを通過して分泌された、純度の高い脂質です。硫黄や重金属といった無機質な毒素は、一切含まれていません。燃焼後、マフラーから出るのは、わずかなCO2と、水蒸気だけ」
「排ガス浄化装置が、丸ごと不要になる、ということか」
倉持は、資料をめくる手を、止めた。
「はい。都市部の空気は、アルプスの山奥のように澄み渡るだろう、と記されています」
さらに——菌液には、万物を分解する『生体酵素』が含まれているという。これをガソリンに精製すれば、燃焼を助ける最強の天然添加剤として働き、不完全燃焼はゼロになる。燃費は、現代のガソリンと比べて、三倍から五倍。リッター百キロメートル走る車も、決して夢物語ではないというのだ。
「……採掘も、輸送も、桁が変わりますね」
担当者の一人が、資料を見つめたまま、呆然と呟いた。
「渋滞中の首都高が、いずれ、松脂のような甘い香りに包まれるようになるかもしれません」
その一文に、会議室に、小さな笑いが漏れた。もっとも、良いことばかりではない。ガソリンスタンドには、『消費期限』という、これまでになかった概念が生まれる。生体由来の物質であるがゆえに、酸化や発酵によって『腐る』——劣化するという、最大の弱点を抱えていた。
ーーー
報告書は、次に、既存の化石燃料との組み合わせについて触れていた。
原油に、少量の黒滑菌液を混ぜると、菌液内の生体酵素が、原油の重い成分——ドロドロのタールなどを、常温のまま分解し、サラサラのガソリンや軽油へと変換してしまう。硫黄などの不純物を底に沈殿させる、天然の脱硫フィルターとしても機能するという。
「巨額のコストがかかる製油所そのものが、不要になる、と?」
「タンクに、原油と菌液を入れて、数日寝かせるだけです。それだけで、最高品質のハイオクガソリンが、完成するそうです」
興味深いのは、互いの弱点を、完全に打ち消し合う点だった。地球の化石燃料は、菌液にとっての防腐剤として働き、過剰な発酵を止める。逆に、化石燃料の側は、菌液の酵素が混ざることで、超・完全燃焼が可能になり、ススや一酸化炭素を、一切出さなくなるという。
「現実的な落とし所は……この、B-10、ですか」
担当者が、資料の一項目を指す。ガソリン九十パーセントに、菌液十パーセントを混ぜた、通称『B-10(ビー・テン)』。『Bio』に由来する名だという。たった一割混ざっているだけで、燃焼効率は数倍に跳ね上がり、車一台あたりのガソリン消費量が、劇的に減る。
「これなら、既存のインフラを、そのまま使えます」
倉持は、深く頷いた。
ーーー
報告は、続いて、ディーゼルへと移っていく。結城たちが、日頃使っている車にも関わる話題だった。
「現実の軽油は、パワー——トルクが出る代わりに、燃焼時に、大量の黒煙や窒素酸化物を出してしまうのが、最大の弱点でした」
「菌液で作った、黒滑軽油は、違うのか」
「はい。ディーゼルエンジンの圧縮着火で爆発させると、菌液の生体酵素が、重い油の分子を限界までバラバラに砕き、百パーセントの完全燃焼を引き起こします。トラックや大型バスが、アクセルを全開にしても、あの嫌な黒煙が、一切出ません」
匂いにも、違いがあった。ガソリン用の、松脂のような甘い香りに対し、油分の重い軽油は、より土っぽく、生々しい匂いになるという。深い森の奥で、朽ち木を踏み砕いたときのような、重厚な腐葉土の匂いに、燻製肉を焼くような、香ばしい煙の匂いが混ざる——物流倉庫や、長距離トラックの集まるパーキングエリアは、巨大なキャンプ場か、燻製工房のような匂いに包まれることになりそうだった。
「トルクも、怪物級に跳ね上がるそうです。通常の半分のエンジンサイズで、倍の荷物を運べる。軍事面でも、黒煙を出さない戦車や、排気ガスの少ない潜水艦が作れる——国防の常識そのものを、覆しかねません」
「……使い方次第で、諸刃の剣にもなる、ということだな」
倉持は、そう呟くと、資料の続きに、目を落とした。
「弱点も、記されています。寒さで、『冬眠』してしまう、と」
氷点下になると、軽油に残る菌の成分が、寒さから身を守るため、休眠状態に入り、タンクの中で、寒天のようなゼリー状に固まってしまうという。冬の朝、トラック運転手は、エンジンをかける前に、専用のヒーターで、菌を温めて起こす——そんな作業が、必須になる。
「『おい、起きろ。仕事だぞ』——タンクを叩いて温めるのが、冬の運転手たちの、新しい日常風景になるかもしれません」
その一文に、今度は、会議室全体が、小さくどよめいた。
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報告書の最後には、石炭への応用が記されていた。
砕いた石炭に、少量の菌液を振りかけるだけで、生体分解酵素が、石炭——古代の植物組織を、瞬時に分解し始める。常温のまま、石炭が、ドロドロの黒い液体、バイオ重油に溶けてしまうのだという。
「かさばって運ぶのが大変だった石炭を、パイプラインで運べるように、ということですか」
「はい。斜陽産業になりかけていた石炭産業が、大復活を遂げるかもしれません」
溶かさずに、少量の菌液を染み込ませてから再圧縮すれば、黒煙を出さない、無煙の固形燃料にもなる。青白く透き通った炎を上げて燃え続け、有毒ガスも出ないため、火力発電所に、巨大な煙突すら不要になるという。
燃えカスにも、思わぬ副産物があった。菌液を混ぜた石炭を燃やした後に残る白い灰には、熱を耐え抜いた菌のミネラル成分と、植物の化石成分が凝縮されている。産業廃棄物どころか、どんな痩せた土地でも作物が育つ、魔法の粉末肥料として、農家に飛ぶように売れるようになるという。
「火力発電所が、最強の肥料工場を兼ねる、か……」
倉持は、最後の一枚を、静かに閉じた。
この一枚の報告書が、世界のエネルギー地図そのものを、塗り替えようとしている——その実感が、会議室の空気を、静かに、しかし確かに、重くしていた。




