第167話 踏み絵
拓也の渡米に先立ち、日本国内では、静かな地殻変動が起きていた。魔石発電の導入が、電力会社との提携という形で進んだことで、従来の発電のベストミックスの構図そのものが、大きく変わりつつあった。天候に左右されず、場所も取らない——それが、何よりの強みだった。その影響は、原油価格にも及び、じわじわと下降を続けていた。
その波は、アメリカにも及んでいた。魔石発電は、電気代の高いハワイ州から、実験的に導入が始まる。結果、電気代は、およそ三割ほど安くなったという。普及が進めば、価格は三分の一程度にまで下がる——そんな予測が出たことで、アメリカ国内でも、魔石発電の生産工場が建設され、自国生産が始まった。州ごとの電気代格差が、新たな問題として浮上するのは、そう遠くない未来のことだろうと、懸念されていた。
そんな情勢の中、拓也は、渡米した。
準国賓待遇での歓迎式典は、これまでにない規模で執り行われた。儀仗兵、国旗、居並ぶ要人たち——それらすべてが、拓也にとっては、どこか現実味の薄い光景だった。
だが、拓也の緊張は、式典そのものよりも、その後に控えている、非公式の面会にあった。
ーーー
「今日、来てもらったのは、他でもない」
密室での面会。大統領は、前置きもそこそこに、本題を切り出した。
「人間を、転移させる実験に、協力してほしい」
拓也は、一瞬、言葉を失った。
「……人間、ですか」
「そうだ」
大統領は、頷く。
「理由は、二つある。一つは、将来的な宇宙開発だ。ロケットを介さず、人が直接、宇宙へ進出できる可能性がある。もう一つは——災害時の、緊急避難だ。一瞬で、人々を安全な場所へ移動させられる技術になり得る」
拓也は、何も答えられなかった。
「もちろん、君自身が対象になることは、求めていない。事前に、同意を得た志願者による、段階的な実験にするつもりだ」
大統領の言葉は、丁寧だった。だが、それでも、拓也の心は、簡単には定まらなかった。
大統領は、そこで、一度、言葉を切った。
「……それと、もう一つ。こちらが、本当の理由だ」
拓也は、思わず、身構えた。
「人質の救出だ。場所は、既に特定できている。だが、そこへ踏み込むには、兵士が何人も犠牲になる恐れがある上、輸送機の損失を含め、リスクが高すぎる」
本来であれば、これは、裏で進めるべき任務のはずだった。だが、米国政府は、あえて小細工をせず、真の目的を、拓也に、そのまま伝えることを選んだ。
「それに——日本も、長年、その手の問題を、抱えているだろう。我々になら、その人物を、特定することができる」
その一言に、拓也は、はっとした。
拉致問題——日本が、何十年も抱え続けてきた、あの問題だ。
これは、米国政府が、日本に恩を売ることにも、通じていた。
ーーー
脳裏に、あの日の記憶が、蘇る。
ダンジョンの罠に落ち、訳も分からないまま、地球へ引き戻された、あの瞬間。
自分の意志とは、まるで関係なく——体ごと、どこかへ、引きずり出される恐怖。
あの感覚は、今も、消えていない。
誰かに、あの感覚を、味わわせることになるかもしれない。それを、自分の手で、実現させてしまっていいのか。
だが——今、危険に晒されているのは、見ず知らずの誰かの、命でもある。断れば、犠牲になるかもしれない兵士たちがいる。そして、日本が、何十年も取り戻せずにいる、あの拉致被害者たちの行方も、もしかしたら。
助けたい、という気持ちと、あの恐怖を、他人に背負わせたくないという気持ちが、拓也の中で、激しくせめぎ合っていた。
拓也は、俯いたまま、拳を、強く握りしめていた。
ーーー
「……お答えは、今すぐでなくて、構いませんか」
拓也は、ようやく、そう絞り出した。
「持ち帰って、考えさせてください」
「もちろんだ」
大統領は、静かに、頷いた。
「ただ——時間的な猶予は、そう長くはない。それだけは、承知しておいてほしい」
その一言が、拓也の胸に、重く沈んでいった。




