第166話 凪
激動が続いていた日々に、束の間の凪が訪れていた。
拓也は、久しぶりに、何の予定もない休日を過ごしていた。
「今度、三人でご飯でも」
宮下から、そんな誘いが届いたのは、数日前のことだった。
ーーー
田和マンの近所にある、小さな定食屋。約束の時間ぴったりに顔を出すと、宮下と氷室は、既に、奥の席に座っていた。
「おー、拓也、こっちこっち」
「お邪魔します」
三人分の定食を頼み、他愛のない話に花が咲く。仕事の愚痴、最近見た映画の話、氷室の新作漫画の進捗——話題は、目まぐるしく移り変わっていった。会話の途中、宮下と氷室が、無意識のうちに、拓也の仕事の核心に近い話題(魔石の再生工場、異世界の書物を扱う出版社との関わり)を口にするが、拓也は、嘘をつかずに、事実を曖昧にぼかしながら、核心を外して受け流す。
ふと、拓也は、前回の訪問の最後を思い出す。あの「二人、付き合っているの?」という問いには、結局、まともな答えが返ってこなかった。
だが、今日の二人を見ていると——以前より、心なしか、距離が近い気がした。何気ない仕草で肩が触れても、以前のように、大袈裟に距離を取らない。宮下が氷室の分まで水を注いでやる、その手つきも、やけに自然だった。
「……何、見てんの」
視線に気づいた氷室が、じろりと睨む。
「いえ、別に」
拓也は、それ以上、何も言わなかった。聞いたところで、はぐらかされるのは、目に見えている。
「そういえば」
宮下が、思い出したように、箸を止めた。
「ニュースで見たけど、魔石の再生工場って、栃木にあるんだよね? 拓也んとこの会社、関わってんの?」
拓也は、内心、わずかに緊張しながらも、表情には出さなかった。
「……栃木のあれは、取引先の一つですね」
嘘は、言っていない。ただ、それが、どこまでの「関わり」なのかは、あえて濁した。
「へー。近いのに、そんな大きい話に絡んでるんだ」
宮下が、素直に感心する。
「私も聞いたことある。あっちの書物を扱ってる出版社があるんでしょ。拓也の会社、それにも関わってるんだよね?」
氷室が、続けて、そう尋ねた。
「翻訳本の企画には、うちも、一枚噛んでます」
拓也は、また、事実だけを、当たり障りなく答える。深町先生の担当や、実際にどこまで携わっているかは、口にしなかった。
「拓也の会社、どこまで手広いんだよ」
宮下が、呆れたように笑う。
「ほんとに、なんの会社なんだか」
氷室も、そう言って、ジト目を向けてきた。
「まあ……色々、やってるので」
拓也は、曖昧に笑って、話を濁した。二人は、それ以上、深くは追及してこなかった。核心には、誰も、辿り着かないまま——話題は、また、他愛のない方向へと、流れていった。
ーーー
食事の帰り、拓也は、田和マンの前で、思いがけない人物と、すれ違った。
二階の、あの老紳士だった。
相変わらず、多くを語らない人物だ。今日も、すれ違いざま、ちらりと視線をよこしただけ——そう思っていたところ、その人物は、ほんの小さく、拓也に向けて、会釈をした。
拓也も、反射的に、頭を下げ返す。
それだけの、一瞬の出来事だった。老紳士は、そのまま、静かに歩き去っていく。
「……あの人、なんだったんだろうな」
拓也は、その背中を見送りながら、小さく呟いた。答えは、今日も、出ないままだった。
ーーー
家に戻ると、母が、夕食の支度をしていた。
「お帰りなさい。今日は、宮下くんたちと会ってきたの?」
「うん。氷室さんも一緒に」
「あら、仲良しね」
母は、そう言いながら、鍋をかき混ぜる。異世界の話も、今ではすっかり、この家の日常会話の一部になっていた。息子が、時々、遠い世界の話をすることに、驚く者は、もう誰もいない。
拓也は、居間のソファに腰を下ろし、ゆっくりと、目を閉じた。
こんな、何でもない一日が、今は、何より、ありがたく感じられた。
ーーー
その夜、拓也のスマートフォンが、鳴った。
「拓也くん。急いで伝えておきたいことがある」
神崎からだった。声の調子が、いつもと、どこか違う。
「アメリカから、正式な招待状が届いた。準国賓待遇だ。渡米の日程は、来月」
「……用件は?」
「そこまでは、まだ、こちらにも知らされていない」
通話が切れた後も、拓也は、しばらく、スマートフォンの画面を見つめていた。
窓の外に広がる夜空を、なんとはなしに、見上げる。
この凪のような日々も、もうすぐ、終わりを告げるのかもしれない——そんな予感が、静かに、胸の奥に沈んでいった。




