第148話 三つの理
研究室に、パソコンのファンが低く唸る音が響いている。
ソニアは、棚から本を取り、迷いのない足取りで机まで運んだ。以前のような、脚を庇う気配はもうない。
「今日は、召喚魔法の理論をやろう。ひと口に召喚といっても、いくつか系統がある」
ソニアは、資料を机に広げた。
「まずは、契約・パス理論だ」
「契約、ですか」
「術者と対象——精霊や幻獣などだな——の間に、あらかじめ結ばれた絆を辿って、引き寄せる。だから、まったく知らない相手は呼べない。事前の合意か、主従関係が前提になる」
「エネルギーは、何を使うんですか」
「主に、術者自身の生命力——オドと呼ぶ——と、信頼度に応じた精神力だ。ただ、魔結晶を触媒に捧げれば、負担はかなり軽くなる」
結城は、少し考えてから、口を開いた。
「それ、誓約・呪縛の魔法陣にも似ていませんか。魂に直接刻み込む、あの仕組みに」
「……ほう。良い着眼点だ」
ソニアが、口元に小さな笑みを浮かべる。
「根は同じだ。絆を術式に落とし込む発想自体が、共通しているのだろう」
褒められることに、まだ慣れていない。結城は、少しだけ、胸の内が温かくなるのを感じた。
―――
「では、俺たちの『勇者召喚』は、どちらに当たるんですか」
「それは、こちらだ。座標指定・引き込み理論」
ソニアの声が、わずかに低くなった。
「対象のいる座標を直接指定し、強力な引力で、こちらへ強引に引っ張り込む。対象の意思は関係ない。勇者召喚や、未知の悪魔の呼び出しに使われる、大規模な術式だ」
結城は、無意識のうちに、拳を軽く握っていた。
剣道場の床が、光に飲み込まれた瞬間の感覚が、不意に蘇る。誰かの意思で、有無を言わさず引きずり出された、あの感覚。
「個人の魔力では到底賄えないから、国家級の大魔法陣に蓄積された大気中の魔力——マナだな——を主電源にする。数十人の高位魔術師による同時詠唱が要ることもある」
「……それだけの代償を払ってでも、欲しかったんですね。俺たちを」
「そういうことだ」
ソニアは、静かに結城の顔を見た。結城は、目を逸らさず、拳の力を少しだけ緩めた。
―――
「もう一つ、教えておきたい理論がある。転移魔法——空間折り畳み理論だ」
「転移、ですか」
「現在地と目的地、二つの座標の間の空間を折り畳んで、直結させる門を作る。歪んだ境界を一歩またぐだけで、どれだけ離れた場所へも移動できる」
結城は、そこであることを思い出した。
「……それ、次元トカゲが使うやつですか。一瞬で消える、あの」
「その通りだ。よく覚えていたな」
ソニアが、感心したように頷く。
「あの魔物は、危機を感じた瞬間、この理論で逃げる。だから狩る側は、発動より速く仕留める必要があった」
「あの時の狩りが……こういう理屈だったんですね」
実体験と理屈が、頭の中で静かに繋がっていく。思っていたより、心地の良い感覚だった。
「空間そのものを歪めるから、莫大なエネルギーが要る。地脈から噴き出す龍穴——パワースポットだな——の自然魔力が使われる。個人で発動するなら、全魔力を枯渇させるほどの魔力貯蔵か、星銀のような特殊な触媒が要る」
「かなりの代償が、要るんですね」
「距離をゼロにするというのは、それだけ理を捻じ曲げる行為だ。ただで済むはずがない」
結城は、ふと気になっていたことを、口にした。
「契約・パス理論と、転移魔法……それぞれ、成功した実例は、あるんですか」
「契約に関しては、魔物の召喚で、いくつも実例がある。使い魔として使役する魔術師は、珍しくない」
「転移の方は、どうなんですか」
「転移は、条件さえ揃えば、まず失敗しない。実例も、数多くある。商人の緊急脱出用の魔道具にも、応用されているくらいだ」
「へえ……座標指定・引き込み理論だけ、随分と特殊なんですね」
「そういうことになる」
ソニアは、資料をまとめて、机の端に置いた。
「今日の講義は、ここまでにしよう」
「ありがとうございました」
結城が、深く頭を下げる。
ソニアは、椅子に腰を下ろし、小さく伸びをした。歩き回った脚を、労わるような仕草だった。
「もっとも——これらの理論だけでは、説明のつかない部分もある」
ソニアは、天井を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「勇者召喚は、座標指定・引き込み理論に基づいているはずなのに……何故、成功したのか、正直、私にも分からない。神の力が、関わったとしか、説明のしようがない」
「神の力、ですか……」
「そうとしか、言いようがない。それと、もう一つ」
ソニアは、結城の顔を、まっすぐに見た。
「中野とかいう者が、ダンジョンの罠から、地球に戻ったという話も、私には理解できない。緒方のスキルが関係していると聞いたが……それ以外の説明は、私にはできない」
「……中野のことまで、知っていたんですか」
「お前が、寝物語に、少し話しただろう」
結城は、ふっと表情を緩めた。忘れていたわけではないが、こんな形で拾われるとは思わなかった。
「……お前たちの帰る術も、案外、その先にあるのかもしれんな」
結城は、何も返せなかった。ただ、胸の奥で、期待と、名付けようのない戸惑いが、静かに絡み合うのを感じていた。
「さて……今夜は、何か温かいものでも、用意させよう。冷える前に、部屋に戻るぞ」
ソニアは、資料を片付けながら、いつもと変わらない調子で、そう言った。研究者の顔から、生活を共にする者の顔へと、ふと切り替わる——その自然な移ろいに、結城は、小さく笑った。
「はい、奥様」
「……その呼び方は、まだ慣れんな」
ソニアが、わずかに、頬を赤らめた。




