第142話 後輩、かぁ
週に一度の、母校の剣道部訪問。拓也が顔を出すと、決まって、一番に駆け寄ってくるのは、葵だった。
「先輩、遅いですよ! 待ってたのに」
「悪い悪い、ちょっと用事が長引いて」
葵は、頬を膨らませながらも、すぐに、拓也の隣にぴったりとくっついてくる。他の部員たちは、すっかり見慣れた光景なのか、特に気にする様子もない。
と、その時。道場の隅で、スマホを覗き込んでいた一年生部員が、大声を上げた。
「うわ、マジだ! 見てください、これ!」
その声に、部員たちが、一斉に、スマホの画面を覗き込む。
「異世界だって……政府が、正式に認めたって!」
「は? 何それ、ドッキリ?」
「いや、普通にニュースだって。総理会見までやってる」
道場内が、にわかに、ざわつき始めた。
「うちの兄貴、その手のオタクなんですけど、今朝から、ずっと騒いでるんですよ。『やっぱりあったんだ、俺は信じてた』とか言って」
部員の一人が、笑いながら、そう報告する。
「魔法系配信者とか、名乗ってた人たちも、SNSで大暴れしてるらしいですよ。『これで俺の信憑性も証明された』とか」
どっと、笑いが起きる。
拓也は、その輪から、少し離れた場所で、黙って、水分補給をしていた。表情には、努めて、何の変化も出さないようにしている。
その様子を、葵は、少し離れた場所から、静かに眺めていた。
姉が、あちら側にいる。そのことを、葵は、家族会を通じて、とうに知らされている。守秘義務の重さも、身に染みて分かっているつもりだった。
だからこそ——今、目の前で盛り上がっている騒ぎは、葵にとって、他の部員たちとは、まるで違う響き方をしていた。
「先輩、これ、どう思います?」
葵は、あえて、何も知らない後輩のふりをして、スマホの画面を、拓也に向けてみせた。
「……さあ。俺には、よく分からないな」
平静を装う拓也の様子に、葵は、内心、小さく笑ってしまいそうになった。
——先輩、意外と、演技下手ですね。
そんな一言が、喉元まで出かかったが、葵は、それを、そっと呑み込んだ。今、この場で暴くようなことでは、ないと分かっている。
「ふーん。先輩、あんまり興味なさそうですね」
葵は、そう続けながら、スマホの画面と、拓也の顔を、交互に見比べた。
「マスコミも、SNSも、あんなに大騒ぎしてるのに……先輩だけ、まるで他人事みたいな顔、してますよね」
葵は、それだけ言って、話を切り上げた。ただ、拓也へ向けた視線には、いつもの無邪気さとは違う、何かを見極めるような色が、一瞬、宿っていた。
「今日、稽古つけてくれるんですよね? 私が最初がいいです」
「相変わらず、独占欲強いな」
「先輩にだけです、こんなの」
冗談めかした口調だったが、その目には、明らかに、冗談では片付けられない熱がこもっていた。
拓也は、それに気づいていないわけではない。ただ、あえて、気づかないふりをするのが、いつものやり取りだった。
ーーー
某国の工作の件を経て、拓也は、葵との接触の頻度を、それとなく増やすようになっていた。
理由は、単純だった。彼女に、危険が及ぶ可能性がある以上、目の届く場所に置いておきたい——それだけの、保護者じみた感覚だった。
「最近、先輩、来る回数増えました?」
「まあ……色々あってな」
「ふーん……理由は、聞かないであげます。来てくれるなら、何でもいいので」
葵は、そう言って、屈託なく笑う。だが、拓也が、以前より頻繁に自分を気にかけてくれていること自体には、確かな手応えを感じている様子だった。
―――
稽古の後、二人きりで話す時間が、少しずつ増えていく。
「先輩は、私のこと、どう思ってるんですか」
不意打ちのような問いに、拓也は、一瞬、言葉に詰まる。
「……大事な後輩、だと思ってる」
「後輩、かぁ……」
葵は、わずかに、目を伏せた。求めていた答えとは、少し違ったのだろう。それでも、それ以上は、踏み込んでこなかった。
「まあ、いいです。今は、それで」
その一言には、「今は」という、含みが残されていた。
その夜、一人になった部屋で、拓也は、昼間のやり取りを、何度も、頭の中で反芻していた。
——大事な後輩。
自分で口にした、その言葉が、なぜか、しっくりと来ていなかった。
葵の顔が、思い浮かぶ。稽古中の真剣な横顔、悔しそうに唇を噛む瞬間、そして、屈託なく笑う顔——それらが、ただの「後輩」に向ける感情にしては、あまりに、鮮明すぎることに、拓也は、今更ながら、気づき始めていた。
——いつから、こうだったんだろう。
答えは、すぐには出なかった。それでも、もう、見て見ぬふりを続けるのは、難しそうだった。
拓也は、小さく息を吐き、天井を見上げたまま、しばらくの間、動けずにいた。




