第141話 至れり尽くせりの違和感
その日、拓也は、久しぶりに、近所の公園を歩いていた。
不意に、小型犬が、リードを引きずったまま、こちらに向かって走ってきた。
「待って、待ってー!」
女性の声が、追いかけてくる。犬は、拓也の足元まで来ると、ぴたりと止まり、尻尾を振った。
「あ……ありがとうございます! すみません、急に手を離しちゃって」
息を切らしながら、女性が、駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか」
「はい、おかげさまで。この子、人懐っこいのに、私の言うことは全然聞かなくて」
女性は、そう言って、笑った。犬は、すでに、拓也に懐いた様子で、足元にすり寄っている。
「よかったら、少し、お茶でも……お礼させてください」
あまりに自然な流れだった。断る理由も、特に見当たらず、拓也は、頷いた。
それから、何度か、街中で顔を合わせるようになった。示し合わせたわけでもないのに、いつも、絶妙なタイミングで。
彼女は、拓也の好みを、まるで、最初から知っていたかのように、次々と言い当てた。好きな食べ物、苦手な話題、休みの過ごし方——聞いてもいないことまで、先回りするように、寄り添ってくる。
「疲れてるでしょう。今度、美味しいコーヒーの淹れ方、教えてあげますね」
その一言をきっかけに、二人の距離は、あっという間に縮まっていった。
ーーー
最初は、心地よかった。だが、次第に、拓也の中に、小さな違和感が積もり始めた。
彼女といると、なぜか、話題が、いつも、同じ方向に流れていく。
「拓也くんって、剣道やってたんだよね。強い人って、周りにも、多いんじゃない?」
「……まあ、それなりに」
「同世代で、すごい人とか、いる? たとえば……女の子で」
さりげない口調だったが、何度も、似たような角度から、話を向けられている気がした。
それに、彼女の察しの良さは、時折、常軌を逸していた。まるで、こちらの欲求を、先回りして満たされているような——都合が良すぎて、逆に、薄気味悪さを覚えるほどだった。
異世界で聞いた、魅了の魔法。あれに、少し似ている——拓也は、ふと、そんなことを思った。
―――
その頃、神崎の元にも、別の筋から、一報が入っていた。
「拓也くんに接触している女性の件ですが……某国の関与が、ほぼ確実です」
「やはり、そうか。狙いは」
「拓也くん自身、というより……東條雪乃くんの妹、葵さんの方に、本命がある可能性が高いと」
「拓也を経由して、葵に近づく、ということか」
「はい。異世界での職業——雪乃くんがどういうスキルを持つ人物なのかまでは、某国側もまだ把握できていないようです。ですが、姉が向こうにいるという事実だけで、妹の葵さんは、間接的な情報源として、十分な価値があると見られているようです」
「職業までは分かっていない、と」
「はい。だからこそ、探りを入れる価値がある、と踏んでいるのかもしれません」
神崎は、すぐさま、拓也に連絡を入れることにした。
―――
「拓也、話がある」
神崎からの連絡を受けた拓也は、静かに、頷いた。
「……やっぱり、そうでしたか」
「気づいていたのか」
「何となく、ですけど。あまりにも、都合が良すぎて。それに、話の向け方が、少し、不自然だったので」
拓也は、それ以上、深追いすることはなかった。
次に会った時、彼女が、また、それとなく葵の話題を振ってきた瞬間——拓也は、静かに、笑みを崩さないまま、告げた。
「東條さんのこと、随分、気になるみたいですね」
「え……」
一瞬、彼女の表情が、揺らいだ。
「僕を通じて、彼女に近づきたいなら——遠回しなやり方は、やめた方がいいですよ」
拓也は、それだけ告げると、静かに、その場を後にした。
振り返ることは、なかった。
彼女の背後にいた某国の計画は、この一言によって、静かに、崩れ去ることになった。
―――
その頃、世間でも、いくつかの動きが、相次いで表面化していた。
まず、動いたのは、マーカス・レインだった。娘の治療が無事に成功したことを受け、その感動と感謝を、メディア、そして自身のSNSを通じて、大々的に発表したのだ。
だが、これは、単なる私的な喜びの表明ではなかった。発表の背後には、遅々として進まない日本政府の公表準備に対する、アメリカ側からの、無言の牽制という意味合いも込められていたと見られる。事実上の、先行リークだった。
この動きに、日本政府は、慌てて動かざるを得なくなった。マーカスの発表から一夜明け、翌日の午前十一時——異世界との正式な交易発表が、急遽、行われることになった。アメリカには、あらためて、正式な通告が入れられている。
これに対し、事前に知らされていなかった隣国は、「我が国も、交渉に加えるべきだ」と、急遽、会見を開いて要求した。だが、日本側は、その要求を、静かに無視した。
一方、アメリカ側は、拓也に関する報道についても、軽めの対応にとどめ、日本との良好な関係の維持を優先する姿勢を崩さなかった。異世界からの物資について問われても、「今は、お答えできる状況にない」の一点張りを貫いていた。




