第13話 型と二割
寮に、一通の手紙が届いた。
差出人の名前を見て、拓也はすぐに思い出した。剣聖の実家、道場主からのものだった。
半年前——いや、正確には拓也が帰ってきてすぐの頃、自宅まで訪ねてきて、名刺を一枚置いて帰った、あの人だった。
封を切ると、丁寧な文字で短くまとめられていた。
「先日の順位決め戦のこと、人づてに伺いました。お元気そうで、何よりです。
突然のお誘いで恐縮ですが、もしお時間があれば、一度道場にいらしてみませんか。お見せしたいものがあります。
ご無理のない時に、いつでも構いません」
怒られるのだろうか、と一瞬身構えたが、文面のどこにも、そういう気配はなかった。むしろ、淡々とした文章の奥に、何か別の意図が感じられた。
次の休日、拓也はその道場を訪ねることにした。
―――
道場は、想像していたよりも古い建物だった。木の匂いと、磨き込まれた床の感触が、明郅館の道場とはまた違う空気を作っている。
「来てくれたか」
道場主は、相変わらず多くを語らない男だった。短く挨拶を済ませると、すぐに本題に入った。
「今日は、見てほしいものがある」
そう言って、道場の中央に立つと、木刀を一本構えた。
動きは、拓也が知っている剣道とは、まったく違っていた。竹刀を使った試合のような、間合いを詰めて一本を取る動きではない。一挙動で相手を制し、それ以上は何もしない。そういう前提で組まれた型だった。
「うちには、現代剣道の前から伝わっている型がある。古流、というやつだ」
道場主はそれだけ言って、もう一度、同じ動きを繰り返した。
見ているうちに、拓也は妙な感覚に気づいた。
——これ、知ってる動きだ。
厳密には、見たことはない。だが、体のどこかが、その動きの意味を理解していた。一本を取るための動きではなく、相手を確実に止めるための動き。ダンジョンで、何度も繰り返してきた、生きるか死ぬかの中での動きと、根っこの部分が同じだった。
現代剣道の試合では、面・胴・小手・突き、それぞれにルールがあり、当てた場所と速さで一本が決まる。だが、この型には、そういう判定の余地がなかった。当たれば、それで終わり。最初からそういう前提で、体の使い方が組まれている。
「やってみるか」
道場主に言われ、拓也は木刀を渡された。型をなぞるように、見た動きをそのまま再現する。
力を込めず、ただ動きの理屈だけをなぞったつもりだった。それでも、道場主の目つきが、わずかに変わったのが分かった。
「……筋がいいな」
短い一言だった。それ以上、深くは触れてこなかった。
「無理に続けろとは言わない。ただ、興味があるなら、いつでも来ればいい」
拓也は頷いた。道場主の視線には、賢者の母親のような疑念の色はなく、ただ、何かを観察するような静かな興味だけがあった。
帰り道、拓也は珍しく、自分から何かをもっと知りたいと思っている自分に気づいた。剣道の試合でルールに合わせて加減することには、ずっと窮屈さを感じていた。だが、今日触れた型には、そういう窮屈さがなかった。
もしかしたら、自分が剣道部で求めていたものは、最初から少しずれていたのかもしれない。そんなことを考えながら、拓也は寮への道を歩いていった。
―――
型を覚えたところで、力加減の感覚そのものが上達するわけではない——それを思い知ったのは、数日後の体育の授業でのことだった。
新体力テストの五十メートル走が行われた日。順番に走り、教師が手元のストップウォッチで時間を計っていく。それだけの、いつもの光景だった。
「次、中野」
拓也は軽く肩を回し、スタートラインに立った。
剣道の三割と同じ感覚で——いや、走るのはまた別の話だ。竹刀を振る加減と、地面を蹴る加減は、まったく違う種類のものだった。それでも、今日は目立つ気はなかった。せいぜい、二割くらいでいい。
「位置について、用意——」
号砲が鳴る。拓也は地面を踏み込んだ。
数歩進んだところで、おかしいと気づいた。景色の流れ方が、普段とまったく違う。慌てて足の運びを緩めようとしたが、ついてしまった勢いは、そう簡単には止まらなかった。
ゴールラインを切った瞬間、視界の端で、先生がストップウォッチを見たまま固まっているのが見えた。
「……え?」
先生は何度もストップウォッチを見返し、目を擦った。
「ちょっと待って。今の、何秒だった?」
近くにいたクラスメイトが覗き込んで、素っ頓狂な声を上げた。
「先生、これ絶対おかしいですよ。この数字、なんかの大会記録より速いんじゃないですか」
周囲がざわつき始める。拓也は表面上は平然としたまま、内心では冷静に言い訳を並べていた。
——いや、これは、たぶん測り間違いだ。手動のストップウォッチなんて、ボタンを押すタイミングで普通にズレるものだし。
都合のいい理屈を、頭の中でどんどん組み立てていく。スタートの合図とボタンを押す瞬間が、ほんの少しズレただけ。それだけのことにしてしまえば、この数字も、ただの誤差として片付けられるかもしれない。
ざわめきを聞きつけて、体育主任らしき別の教師がやってきた。
「もう一回、同じ条件で走ってみてくれ。さすがに、この数字は信じられない」
拓也は内心で安堵しながらも、表には出さなかった。今度は慎重に、本当に二割くらいの力に抑える。
二回目の記録は、以前の自分が出していたような、ごく普通の数字に収まった。
「ああ、やっぱり、さっきは計測ミスだったか」
体育主任がそう言って、軽く笑った。最初の数字は、ストップウォッチの故障か、誰かの押し間違いとして処理されることになった。
助かった、と拓也は思う。だが同時に、これまで剣道でしか意識していなかった「加減」が、走ることにも、跳ぶことにも、同じように必要になるという事実を、改めて突きつけられた気がした。
その日の後半、走り幅跳びの計測もあったが、今度は最初から慎重に、踏切板の手前で力を緩めることを意識した。記録は、ごく平凡なものに収まった。
剣道の竹刀を振る時とは、また別の種類の緊張感だった。三割で済む話なら良かったが、体育の授業は、思っていたよりも油断ができない時間らしい。




